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アグニの神(1)
日期:2021-06-14 23:57  点击:286
       一
 
 支那の上海(シヤンハイ)の或町です。昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度(インド)人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加(アメリカ)人と何か頻(しきり)に話し合つてゐました。
「実は今度もお婆さんに、占(うらな)ひを頼みに来たのだがね、――」
 亜米利加人はさう言ひながら、新しい煙草(たばこ)へ火をつけました。
「占ひですか? 占ひは当分見ないことにしましたよ。」
 婆さんは嘲(あざけ)るやうに、じろりと相手の顔を見ました。
「この頃は折角見て上げても、御礼さへ碌(ろく)にしない人が、多くなつて来ましたからね。」
「そりや勿論御礼をするよ。」
 亜米利加人は惜しげもなく、三百弗(ドル)の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
「差当りこれだけ取つて置くさ。もしお婆さんの占ひが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
 婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想(あいそ)がよくなりました。
「こんなに沢山頂いては、反(かへ)つて御気の毒ですね。――さうして一体又あなたは、何を占つてくれろとおつしやるんです?」
「私が見て貰ひたいのは、――」
 亜米利加人は煙草を啣(くは)へたなり、狡猾(かうくわつ)さうな微笑を浮べました。
「一体日米戦争はいつあるかといふことなんだ。それさへちやんとわかつてゐれば、我々商人は忽(たちま)ちの内に、大金儲けが出来るからね。」
「ぢや明日(あした)いらつしやい。それまでに占つて置いて上げますから。」
「さうか。ぢや間違ひのないやうに、――」
 印度人の婆さんは、得意さうに胸を反(そ)らせました。
「私の占ひは五十年来、一度も外(はづ)れたことはないのですよ。何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね。」
 亜米利加人が帰つてしまふと、婆さんは次の間の戸口へ行つて、
「恵蓮(ゑれん)。恵蓮。」と呼び立てました。
 その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋(らふ)のやうな色をしてゐました。
「何を愚図愚図(ぐづぐづ)してゐるんだえ? ほんたうにお前位、づうづうしい女はありやしないよ。きつと又台所で居眠りか何かしてゐたんだらう?」
 恵蓮はいくら叱られても、ぢつと俯向(うつむ)いた儘(まま)黙つてゐました。
「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺ひを立てるんだからね、そのつもりでゐるんだよ。」
 女の子はまつ黒な婆さんの顔へ、悲しさうな眼を挙げました。
「今夜ですか?」
「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちやいけないよ。」
 印度人の婆さんは、脅(おど)すやうに指を挙げました。
「又お前がこの間のやうに、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺さうと思へば、雛(ひよ)つ仔(こ)の頸(くび)を絞めるより――」
 かう言ひかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓側(まどぎは)に行つて、丁度明いてゐた硝子窓(ガラスまど)から、寂しい往来を眺めてゐるのです。
「何を見てゐるんだえ?」
 恵蓮は愈(いよいよ)色を失つて、もう一度婆さんの顔を見上げました。
「よし、よし、さう私を莫迦(ばか)にするんなら、まだお前は痛い目に会ひ足りないんだらう。」
 婆さんは眼を怒らせながら、そこにあつた箒(はうき)をふり上げました。
 丁度その途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
 

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