三
その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影(ほかげ)を口惜(くや)しさうに見つめてゐました。
「折角御嬢さんの在(あ)りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察へ訴へようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港(ホンコン)でもう懲(こ)り懲(ご)りしてゐる。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といつてあの魔法使には、ピストルさへ役に立たないし、――」
遠藤がそんなことを考へてゐると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。
「おや、紙切れが落ちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙ぢやないか?」
かう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾ひ上げながらそつと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違ひない、消えさうな鉛筆の跡があります。
「遠藤サン。コノ家(ウチ)ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』トイフ印度(インド)ノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ツテヰル間中、死ンダヤウニナツテヰルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダサウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナツテシマフノデスガ、今夜ハサウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカツタ真似ヲシマス。サウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ツテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖(コハ)イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキツト私ヲ返スダラウト思ヒマス。ドウカ明日(アシタ)ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヤウナラ。」
遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。
「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」
遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでせう。今まで明るかつた二階の窓は、急にまつ暗になつてしまひました。と同時に不思議な香(かう)の匂(にほひ)が、町の敷石にも滲(し)みる程、どこからか静に漂つて来ました。