先生の書斎は、四方の書棚も窓も壁も黒布で覆い隠して、一つの大きな暗箱の様にしつらえられていた。一方の壁に近く小円卓と一脚の長椅子が置いてあって、それを中心にして、七脚の椅子がグルッと円陣を張っている。机などはすっかり取りかたづけられ、室内にはその外に何もない。小円卓の上に小さい卓上電燈がついていて、それがボンヤリと異様な舞台を照らしている。
一同は全く無言で、夫々の位置に着席した。正面のソファには霊媒の龍ちゃんが長々と横たわり、その右隣の椅子には黒川博士、左隣には妖怪学者の熊浦氏が腰かけ、外の一同も思い思いの椅子を選んで腰をおろした。
閉め切った部屋は、空気のそよぎさえなく、少しむし暑い感じであったが、じっと気を澄ましていると、温度に無感覚になって行く様に思われた。
余りに静かなので、一人一人の呼吸や心臓の音までも聞取れる程であった。
黒川先生はやや十分ほども、姿勢を正して瞑目していらしったが、霊媒の呼吸が寝入った様に整って来た時、ソッと手を伸ばして卓上燈のスイッチをお廻しなすった。部屋は冥界の闇にとじこめられた。
それから又五分程の間、実験室には死の様な沈黙が続いた。じっと目を凝らしていると、全く光のない密閉された室内ではあったが、何かしらモヤモヤと、物の形が見分けられる様に思われた。中にも、長椅子に横わっている龍ちゃんと、丁度僕の向側に腰かけている鞠子さんの服装が、闇をぼかして、薄白く浮上って来た。
「織江さん、織江さん」
突然、闇の中に人の声がして、その部屋にはいない人物の名を呼ぶのが聞えた。黒川博士が霊媒の龍ちゃんのコントロールを呼び出していらっしゃるのだ。コントロールというのは、謂わば龍ちゃんの第二人格であって、盲目の少女の声を借りて、幽冥界からこの世に話しかける霊魂のことだ。龍ちゃんの場合は、その霊魂は織江さんという女性に極まっている。いつの世いかなる生活を営んでいた女性なのか、誰も知らない。ただ織江さんという名を持つ、一つの魂なのだ。
黒川先生の陰気な声が、二三度その名を繰返すと、やがて、いつもの様に、闇の中に苦しげな呼吸が聞えて来た。殆どうめき声に近い荒々しい呼吸。龍ちゃんの肉体の中に、全く別の魂が入り込んで、それが龍ちゃんの声帯を借りて物を云おうとする。痛ましい苦悶なのだ。僕はこれを聞く度に、降霊実験は外科手術と同じ様に、或はそれ以上に残酷なものだと感じないではいられぬ。
併しこの苦悶は長く続く訳ではなかった。今にも死に相な息遣いが、突然静かになると、喰いしばった歯と歯の間から漏れる様な、シューシューという異様な音が聞え始める。まだ言葉になり切らない魂の声だ。
彼女は何か云おうとあせっている。時々人の言葉の様な調子にはなるけれど、熱病患者の譫言の様に、舌がもつれて意味がとれぬ。真暗な部屋で、全く理解の出来ない、しかも意味ありげな声を聞くのは、決して気味のよいものではない。聞いている方で、ふと俺は気が違ったんじゃないかしらという、変てこな錯覚を起すことさえある。
だが、それを我慢している内に、声が段々意味を持ち始める。異様に低い嗄声ではあるけれど、充分聞分けられる程度になる。
「わたし、いそいで、お知らせしなければならないのです」
暗闇の中に、ゆっくりゆっくりと、全く聞覚えのない、低い無表情な声が、まるで井戸の底からででもある様に、不思議な反響を伴って響いて来る。
「織江さんですか」
黒川先生の落ちついたお声が聞える。
恶灵(19)
日期:2021-08-19 20:36 点击:282