顔のない死体
「やっぱりそうだ。人間の腕だ。指の様子では、まだ若い女の様だね」
妖犬の捨てて行った一物に近より、怖々覗き込みながら大宅が判断した。
「どっかの娘さんが喰い殺されたのじゃあるまいか。それとも餓えた山犬が墓をあばいたのか」
「イヤ、この村には若い女の新仏はない筈だ。といって、山犬共が生きている人間を喰い殺すなんて、そんな馬鹿なことは考えられないし、オイ昌ちゃん、やっぱり君の云った通り、こいつは少し変な具合だね」
流石の大宅も目の色を変えていた。
「それ見給え。土竜やなんかで、あんな全身血まみれになる筈はないよ」
「兎も角調べて見よう。片腕があるからには、その腕のついていた身体がどっかになければならない。君、行って見よう」
二人は、ひどく緊張して、何か探偵小説中の人物にでもなった気持で、さい前から妖犬のやって来た方角へと急いだ。
ポッカリと黒い、怪物の口の様なトンネルの入口が、段々形を大きくして近づいて来た。番小屋の中で手内職の編ものをしている仁兵衛爺さんの姿も見える。
と見ると、その番小屋の小半丁手前、鉄道線路の土手のすぐ側の一際深い叢の中から、三本の、或は黒く或は白い牛蒡の様なものが生えて、それがピンピン動いていた。何ともえたいの知れぬ異様な光景であったが、やがて、草に隠れて身体は見えぬけれど、その三本の牛蒡は、御馳走に夢中になっている三匹の犬の尻尾であることが分った。
「あすこだ。あすこに何かあるんだ」
大宅は、先の例に慣って、先ず小石を二つ三つ投げつけると、三匹の犬は、叢の中から、一斉にニョッと首をもたげて、血に狂った六つの目でこちらを睨みつけた。牙をむきだした真赤な口から、ボトボトとしずくを垂らしながら。
「畜生、畜生」
その形相にこちらはギョッとして、又も小石を拾って投げつける。それには犬共も敵し兼ねて、さも残り惜そうに逃げ去って行った。
そのあとへ、二人は大急ぎで駈けつけ、草を分けて覗いて見ると、草の根のジメジメした地面に、人間の形をした真赤なものが、黒髪を振り乱し、派出な銘仙の着物の前をはだけて、転がっていた。
二人が見た丈けでも六匹の大犬に喰い荒されているのだ。まだ生々しい死骸の、あばら骨が現われ、臓腑が飛び出し、顔面は跡かたもない赤はげになって、茶飲茶碗程もあるまんまるな目の玉が虚空を睨んでいたとて不思議はない。
殿村も大宅も、生れてから、こんな滑稽な、えたいの知れぬ、恐ろしいものを見たことがなかった。
犬の歯に荒されない部分の皮膚を見ると、よく肥っていて病人らしくはない。さき程犬の銜えて来た片腕を除いては、五体がチャンと揃っている所を見ると、轢死人でもないらしい。すると、六匹の野犬が健康な一人の女を喰い殺してしまったのであろうか。イヤイヤ、それは考えられないことだ。人間一人喰い殺される騒ぎを、いくらなんでも、すぐ近くの番小屋の仁兵衛爺さんが気付かぬ筈はない。悲鳴を聞きつけて助けに駈けつけぬ筈はない。
「君はどう思う。犬共は、生きている女を喰い殺したのでなくて、とっくに殺されている死骸を餌食にしたのじゃないだろうか」