それから、今日この人があの二階で消え失せてしまった秘密も、君には説明する迄もなかろう。やっぱり同じ方法で、今度はS村とは反対の方角へ、無蓋貨車のただ乗をやったのだよ。サア、鶴子さん、若し僕の推察に間違った点があったら訂正をして下さい。多分訂正する必要はないでしょうね」
殿村は語り終って、再び鶴子に近づき、その肩に手をかけて引起そうとした。
とその瞬間、俯伏ていた鶴子の身体が、電気にでも感じた様に、大きくビクッと波打ったかと思うと、「ギャッ」という様な身の毛もよだつ叫声を発して、彼女はガバとはね起きた。はね起きて、いきなり、断末魔の気違い踊りを踊り出した。
それを一目見ると、殿村も国枝氏も、余りの恐ろしさに、思わずアッと声を立ててあとじさりをした。
鶴子の顔は、涙の為に厚化粧の白粉が、不気味なまだらにはげ落て、目は血走り、髪は逆立ちもつれ、しかも、見よ、彼女の口は夜叉の様に耳までさけて、かみ鳴らす歯の間から、ドクドクとあふれ出る真赤な血のり。それが唇を毒々しく彩り、網目になって顎を伝って、ポトポトとリノリウムの床へしたたり落ているではないか。
鶴子は遂に舌を噛み切たのだ。自殺せんとして舌を噛み切たのだ。
「オーイ、誰か来て下さい。大変です。舌を噛み切たのです」
意外の結果に狼狽した殿村は、廊下に飛び出して、声を限りに人を呼んだ。
× × ×
かくしてS村の殺人事件は終りをつげた。舌を噛み切た山北鶴子は、可哀相に死に切れず、永らく療養所の厄介になっていたが、傷口は快癒しても狂気は治らず、呂律の廻らぬ口で、あらぬことをわめきながら、ゲラゲラと笑う外には、何の能もない気違い女となり果ててしまった。
だが、それは後のお話。その日、舌噛み切た鶴子を院長に託し、鶴子の実家へは長文の電報を打って置いて、一先ずN市へ引返す汽車の中で、国枝予審判事は、親友の殿村に、こんなことを尋ねたものだ。
「それにしても、僕にはまだ呑み込めない点があるんだがね。鶴子が無蓋貨車に隠れて、逃げ出したのは分っているが、その行先が高原療養所だということを、君はどうして推察したんだね」
鶴子の自殺騒ぎで、折角事件を解決した楽しさを、滅茶滅茶にされた殿村は、苦い顔をして、ぶっきら棒に答えた。
「それは午前九時発の貨物列車が、丁度療養所の前で、操車の都合上ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木の間に隠れたままU駅まで行ったのでは、貨物積卸しの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしてもU駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには療養所の前で停車した折が絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りた所には、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に屈強の隠れがなんだよ。探偵小説狂の鶴子さんがそこへ気のつかぬ筈はない。僕はこんな風に考えたんだ」
「なる程、聞いて見ると、実に何でもない事だね。併し、その何でもない事が、僕や警察の人達には分らなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机の抽斗に残して置いた、Kの署名のある呼出状は、無論鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めの浴衣の方は、一寸解釈が難しいと思うが」
「それも、なんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君の留守中にも、自由に遊びに来たに違いない。そうして遊びに来ている間に、機会を見て大宅君の着古しの浴衣を盗み出すのは造作もないことだ。その浴衣に血を塗って、丸めて、犯罪の前日あたりに、あの縁の下へ放り込んで置くというのも、少しも難しいことではない」
「成程、成程、犯罪のあとではなくて、その前に、予め証拠品を作って置いたという訳だね。成程、成程。しかし、あの夥しい血のりはどこから取ったものだろう。僕は念の為にあれを分析して貰ったが、確に人間の血なんだよ」
「それは僕も正確には答えられない。併しあの位の血をとることは、さして困難ではないのだよ。例えば一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、茶呑茶碗に一杯位の血は取れる。それをうまく塗り拡げたら、あの浴衣の血痕なぞ造作なく拵えられるよ。鶴子さんの腕を検べて見れば、その注射針のあとが、まだ残っているかも知れない。まさか他人の血を盗む訳にも行くまいから、恐らくそんなことだろうよ。この方法は探偵小説なんかにもよく使われているんだからね」
国枝氏は感じ入って、幾度も肯いて見せた。
「僕は君にお詫びしなければならない。小説家の妄想などと軽蔑していたのは、どうも僕の間違いらしい。今度の様な空想的犯罪には、僕等実際家は、全く手も足も出ないことが分った。僕はこれから、実際問題についても、もっと君を尊敬することにしよう。そして、僕も今日から探偵小説の愛読者になろう」
予審判事は無邪気に兜を脱いだ。
「ハハハ……、そいつは有難い。これで探偵小説愛読者が一人ふえたというものだね」
殿村も一倍の無邪気さで、朗かに笑った。