ですが、彼の方では、その時やっぱり凹面鏡を覗いて、これはまた私とあべこべで、恐ろしく思うよりは、非常な魅力を感じたものとみえ、教室全体に響き渡るような声で、「ホウ」と感嘆の叫びを上げたものなんです。それがあまり頓狂に聞こえたものですから、その時は大笑いになりましたが、さてそれからというものは、彼はもう凹面鏡で夢中なんです。大小さまざまの凹面鏡を買いこんで、針金だとかボール紙などを使い、複雑なからくり仕掛けをこしらえては、独りほくそ笑んでいる始末でした。さすが好きな道だけあって、彼は人の思いもつかぬような、変てこな装置を考案する才能を持っていて、もっとも手品の本などをわざわざ外国から取り寄せたりしたのですけれど、今でも不思議に堪えないのは、これも或るとき彼の部屋をおとずれて、驚かされたのですが、魔法の紙幣というからくり仕掛けでありました。
それは、二尺四方ほどの、四角なボール箱で、前の方に建物の入口のような穴があいていて、そこのところに一円札が五、六枚、ちょうど状差しの中のハガキのように、差してあるのです。
「このおさつを取ってごらん」
その箱を私の前に持ち出して、彼は何食わぬ顔で紙幣を取れというのです。そこで、私はいわれるままに手を出して、ヒョイとその紙幣を取ろうとしたのですが、なんとまあ不思議なことには、ありありと眼に見えているその紙幣が、手を持って行ってみますと、煙のように手ごたえがないではありませんか。あんな驚いたことはありませんね。
「オヤ」
とたまげている私の顔を見て、彼はさも面白そうに笑いながら、さて説明してくれたところによりますと、それは英国でしたかの物理学者が考案した一種の手品で、種はやっぱり凹面鏡なのです。詳しい理窟はよく覚えていませんけれど、本ものの紙幣は箱の下へ横に置いて、その上に斜めに凹面鏡を装置し、電灯を箱の内部に引き込み、光線が紙幣に当たるようにすると、凹面鏡の焦点からどれだけの距離にある物体は、どういう角度で、どの辺にその像を結ぶという理論によって、うまく箱の穴へ紙幣が現われるのだそうです。普通の鏡ですと、決して本ものがそこにあるようには見えませんけれど、凹面鏡では不思議にもそんな実像を結ぶというのですね。ほんとうにもう、ありありとそこにあるのですからね。
かようにして、彼のレンズや鏡に対する異常なる嗜好は、だんだんと嵩じて行くばかりでしたが、やがて中学を卒業しますと、彼は上の学校にはいろうともしないで、ひとつは親たちも甘過ぎたのですね、息子の言うことならば、たいていは無理を通してくれるものですから、学校を出ると、もうひとかどおとなになった気で、庭の空き地にちょっとした実験室を新築して、その中で、例の不思議な道楽をはじめたものです。
これまでは、学校というものがあって、いくらか時間を束縛されていたので、それほどでもなかったのが、さて、そうして朝から晩まで実験室にとじこもることになりますと、彼の病勢は俄かに恐るべき加速度をもって昂進しはじめました。元来友だちの少なかった彼ですが、卒業以来というものは、彼の世界は、狭い実験室の中に限られてしまって、どこへ遊びに出るというでもなくしたがって来訪者もだんだん減って行き、僅かに彼の部屋をおとずれるのは、彼の家の人を除くと、私ただ一人になってしまったのでした。
それもごく時たまのことですが、私は彼を訪問するごとに、彼の病気がだんだん募って行って、今ではむしろ狂気に近い状態になっているのを目撃して、ひそかに戦慄を禁じ得ないのでした。彼のこの病癖にもってきて、更らにいけなかったことは、ある年の流行感冒のために、不幸にも彼の両親が、揃ってなくなってしまったものですから、彼は今は誰に遠慮の必要もなく、その上莫大な財産を受けついで、思うがままに、彼の妙な実験を行なうことができるようになったのと、それに今ひとつは、彼も二十歳を越して、女というものに興味をいだきはじめ、そんな変てこな嗜好を持つほどの彼ですから、情欲の方もひどく変態的で、それが持ち前のレンズ狂と結びついて、双方がいっそう勢いを増す形になってきたことでした。そしてお話というのは、その結果、ついに恐ろしい破局を招くことになった或る出来事なのですが、それを申し上げる前に、彼の病勢が、どのようにひどくなっていたかということを、二つ三つ、実例によってお話ししておきたいと思うのです。
镜地狱(3)
日期:2021-10-08 09:09 点击:297