そして、そんな狂乱状態がつづいたあとで、ついに悲しむべき破滅がやってきたのです。私の最も親しい友だちであった彼は、とうとう本ものの気ちがいになってしまったのです。これまでとても、彼の所業は決して正気の沙汰とは思われませんでした。しかし、そんな狂態を演じながらも、彼は一日の多くの時間を常人のごとく過ごしました。読書もすれば、痩せさらぼうた肉体を駆使して、ガラス工場の監督指揮にも当たり、私と会えば、昔ながらの彼の不可思議なる唯美思想を語るのに、なんのさしさわりもないのでした。それが、あのような無慙な終末をとげようとは、どうして予想することができましょう。おそらく、これは彼の身うちに巣食っていた悪魔の所業か、そうでなければ、あまりにも魔界の美に耽溺した彼に対する、神の怒りででもあったのでしょうか。
ある朝、私は彼の所からの使いのものに、あわただしく叩き起こされたのです。
「大へんです。奥様が、すぐにおいでくださいますようにとおっしゃいました」
「大へん? どうしたのだ」
「私どもにはわかりませんのです。ともかく、大急ぎでいらしっていただけませんでしょうか」
使いの者と私とは、双方とも、もう青ざめてしまって、早口にそんな問答をくり返すと、私は取るものも取りあえず、彼の屋敷へと駈けつけました。場所はやっぱり実験室です。飛び込むように中へはいると、そこには、今では奥様と呼ばれている彼の愛人の小間使いをはじめ、数人の召使いたちが、あっけに取られた形で、立ちすくんだまま、ひとつの妙な物体を見つめているのでした。
その物体というのは、玉乗りの玉をもう一とまわり大きくしたようなもので、外部には一面に布が張りつめられ、それが広々と取り片づけられた実験室の中を、生あるもののように、右に左にころがり廻っているのです。そして、もっと気味わるいのは、多分その内部からでしょう、動物のとも人間のともつかぬ笑い声のような唸りが、シューシューと響いているのでした。
「一体どうしたというのです」
私はかの小間使いをとらえて、先ずこう尋ねるほかはありませんでした。
「さっぱりわかりませんの。なんだか中にいるのは旦那様ではないかと思うのですけれど、こんな大きな玉がいつの間にできたのか、思いもかけぬことですし、それに手をつけようにも、気味がわるくて……さっきから何度も呼んでみたのですけれど、中から妙な笑い声しか戻ってこないのですもの」
その答えを聞くと、私はいきなり玉に近づいて、声の洩れてくる箇所を調べました。そして、ころがる玉の表面に、二つ三つの小さな空気抜きとも見える穴を見つけるのは、わけのないことでした。で、その穴のひとつに眼を当てて怖わごわ玉の内部を覗いて見たのですが、中には何か妙に眼をさすような光が、ギラギラしているばかりで、人のうごめくけはいと、無気味な、狂気めいた笑い声が聞こえてくるほかには、少しも、様子がわかりません。そこから二、三度彼の名を呼んでもみましたけれど、相手は人間なのか、それとも人間でないほかの者なのか、いっこうに手ごたえがないのです。
镜地狱(8)
日期:2021-10-08 09:11 点击:316