地獄への旅
洞穴に吸いこまれる勢が、あまりはげしかったものですから、少年たちは一瞬間気を失ったように、何が何だかわからなくなってしまいました。
少年たちにとっては、そのまま気を失って、いつまでも目ざめない方がしあわせだったかもしれません。でも、三人とも、普通の子供にくらべては、ずっと心のしっかりした少年たちでしたから、気を失ったままになるようなことはありません。中にも一番勇気のある一郎君は、たちまち正気にかえって、筏が洞穴の奥の方へ、非常な早さで流れているのに気づきますと、いきなり、
「頭を下げて、みんな、頭を下げて、筏の上にうつぶせになるんだよ!」
と、喉もやぶれるような大声で、さけびつづけました。
どうしてそんな大声をしなければならなかったかというと、洞穴の中の水の流は、ゴーッゴーッと、まるで雷のような恐しい音を立てていたからです。
保君と哲雄君とは、その声をかすかに聞いて「ア、そうだ」と気づいて、大いそぎで、筏の上に平べったく、「伏せ」の姿勢になりました。それはいうまでもなく、洞穴がせまくなっていて、頭をうつといけないからです。すごい早さで流れているのですから、岩角で頭でもうとうものなら、そのまま死んでしまうかも知れないからです。
そうして、三分ほどの間、少年たちは生きた心地もなく、筏の上にうつぶせになったまま、身動もしませんでした。あまりの恐しさに、物を考える力も失ってしまって、何をどうしていいのか、まるでわからなかったのです。
その三分間に、筏は一マイルも進んだような気がしました。それほど穴の中の水の流が急だったのです。
しかし、やがて、流がいくらかゆるくなり、水の音も、はじめほどやかましくないようになりました。きっと洞穴がひろくなったからなのでしょう。
「みんな大丈夫かい? けがはしなかったかい?」
一郎君の声が暗闇からひびきました。
「ウン、大丈夫だよ。君は?」
保君と哲雄君が、声をそろえて聞きかえしました。
「僕も大丈夫だ。みんな、しっかりしているんだよ。まだ運のつきとはきまっていないんだからね」
一郎君は二人を元気づけるように、しっかりした声でいいました。
「眼鏡猿も鸚鵡も無事だよ。僕がさっきから、しっかり抱いているんだ。こいつたち、声も出ないほどびっくりして、ブルブルふるえているよ」
さすがに動物ずきの保君です。こんな場合にも、かわいそうな家族のことを忘れなかったのです。
「櫂は? 櫂は流しやしない?」
哲雄君の声です。
「ア、櫂がない。流れちゃったよ。君の方は?」
「僕も流しちゃった。櫂があれば、岩にぶつからないように、用心が出来るんだけどなあ」
哲雄君の残念そうな声がしたまま、しばらくの間、誰の声も聞えませんでした。ただ真暗闇の中に、ゴーゴーと水の流れる音が聞えているばかりです。
夜のくらさは、どんな真夜中でも、どこかしら空がほのあかるく、家や立木の形ぐらいは見わけられるものですが、この洞穴の中のくらさは、そんな夜のくらさなどにはくらべられないほど真暗で、三人とも盲になってしまったのと、すこしもかわりがありませんでした。
深海魚という、深い深い海の底にすんでいる魚は、全く光というものがないために、物を見る必要がなく、目がなくなってしまっているということですが、この洞窟の流の中に、もし魚がすんでいるとすれば、きっとその深海魚のように、目のない魚にちがいありません。それほど闇がこいのです。墨を流したように真暗なのです。
「ねえ、僕たちはどうなるんだろうねえ。この水は、いったいどこまで流れていると思う?」
保君の悲しそうな声が聞えました。だまっていては、ひとりぼっちになったような気がして、こわくてたまらないので、なんでもいいから、物をいわないではいられなかったのです。
「それはわからないけれど、あんなに早く流れたんだから、ここは湖水の水面よりは、うんと低いところにちがいないよ。そして、まだまだ下の方へ、下の方へと流れて行くらしいね」
哲雄君が考え考え答えました。
「下の方へって、じゃ僕たちは地球の中心の方へ流されているわけなんだね。このまま、地球の真中へ吸いこまれてしまうんじゃないだろうか」
保君がべそをかいたような声で、とっぴなことをいい出しました。でも、保君を笑ってはいけません。誰だって、この時の三人のような境遇になれば、普通では想像もつかない恐しいことを、考え出すにちがいないのです。
「ハハハハハハハハ」
一郎君と保君とが、声をそろえて笑いました。しかし、それはさびしい笑声でした。
「まさか、そんなことはないよ。でもね、考えてみると、一つだけ、恐しいことがあるんだよ」
哲雄君の声が、云おうかいうまいかと、ためらうような調子で聞えました。
「エ、恐しいことって? 何さ? いってごらん。早く、いってごらん」
保君のおびえきった声です。
「それはね……」
哲雄君はなぜかいいしぶっています。
「エ、それは何さ?」
「この流の先が滝になってやしないかということだよ」
「エ、滝?」
「ア、そうだ、そうかもしれない」
豪胆な一郎君までが、びっくりしたように声をあげました。
かならず滝になっているときまったわけではありませんが、しかし、そうでないといいきることも出来ません。
もし滝になっていたら!
それを思うと、三人はからだ中ビッショリ冷汗が出るほど、こわくなって来ました。
真暗で何も見えないのが、なおさらいけないのです。耳をすますと、ゴーゴーという水の音の中に、何だか音色のちがう一種異様のひびきがまじっているように感じられます。もしやそれが、遠くの方で、滝の落ちている音ではないかと思うと、もう生きたそらもありません。
「みんな、出来るだけ手をのばして、岩にさわってごらん。岩をつかめば、筏の流れるのをとめられるかもしれないよ」
一郎君がさすがにおちついた声で命じました。こういう時には、智恵よりも勇気です。力強い一郎君の声を聞いた二人は、どんなに心丈夫に思ったかしれません。
少年たちは危険も忘れて、筏の上に立上り、右、左、上と三方に、出来るだけの手をのばしてみました。しかし、いくら闇の中をさぐっても、三人の手には、何もさわらないのです。一郎君はふと気づいて、長い銃を持って、あちこちとさぐってみましたが、それでも何もさわりません。
「ここは広いんだよ。ウンと広いんだよ。銃でさぐってみたけれど、ちっとも手ごたえがないや」
でも、少年たちは、なおしばらくの間、根気よく手さぐりをつづけていましたが、いつまでやっていても、何の効能もないとわかると、がっかりして、又筏の上に寝そべってしまいました。
こんな時、櫂がのこっていれば、すこしでも流にさからって、筏をこぎもどすことも出来たのでしょうが、その櫂は二本とも、とっくに流してしまっていたのです。
もう運を天にまかせるほかはありません。少年たちの目に涙がこみ上げて来ました。そして、真暗闇の目の前に、なつかしいお父さまやお母さまの姿が、まざまざとあらわれて来るのです。みんな、心の中で、「お父さーん! お母さーん!」と呼びつづけました。無邪気な保君などは、口に出して、「お父さーん、助けて下さーい!」とさけんだほどです。
やがて、洞穴に吸いこまれてから、二十分ほどもたったでしょうか。三人は夢中になって、神様を念じたり、お父さまお母さまのことを思い出したりしていたのですが、そのうちに、何だか妙なことが起って来ました。
「アアあつい、あつくってたまらないや」
まず最初、保君がそんなことをいって、いきなりシャツとズボンをぬいで、はだかになってしまいました。
「ほんとだ。どうしてこんなにあついのだろう」
一郎君も哲雄君も、つづいてシャツとズボンをぬぎ、三人とも猿股一つになってしまいました。それでも、まだあつくてたまらないのです。
「変だなあ、地の底でこんなにあつくなるなんて」
哲雄君はどうもがてんがいかないものですから、ふと気づいて、筏のふちへ這いよって、手を流の水の中へ入れてみましたが、入れたかと思うと、「アッ」とさけんで、手を引きました。
「どうしたの? 哲雄君じゃないか」
「ウン、一郎君、水の中へ手を入れてごらん。あついんだよ。お湯みたいだよ」
一郎君も保君も、いそいで手を入れてみましたが、二人とも「アッ」といって、その手をひっこめました。
「あつかったはずだよ。僕たちはわき立っている湯の中を流されていたんだもの。でも、どうしたんだろうね。気味が悪いね」
「今さっきまで、つめたい水だったよ。急にあつくなったんだよ。何だか進むほどだんだんあつくなるような気がするね」
いったいこれはどうしたというのでしょう。何ともえたいの知れぬ不気味さです。三人は思わず筏の真中の方にすりよって、ドキドキしながら、次に起ることを待っているほかはありませんでした。
そして、すこしたつと、今度もまた、保君が一番早くそれに気づいて、頓狂な声を立てました。
「アラ、一郎君、君の顔が見えるよ。ホラ、ボーッと白く見えているよ」
「ア、ほんとだ。君の顔も見える」
「どっかから、かすかな光がさしているんじゃないかしら」
三人はなんだかひどくうれしいような気がしました。すこしでも光がさしてくるとすれば、洞穴の出口へ近づいたしるしではないでしょうか。
「だんだんはっきり見えて来るよ。君の顔赤いね。ア、哲雄君も真赤な顔してる」
一郎君にいわれて、三人がお互の顔を見ますと、妙に赤い顔をしているではありませんか。あつさに上気していたからでしょうか。いや、どうもそのためではないようです。どこからか赤い光がさしているような感じなのです。
やがて、お互の顔がこまかいところまで見わけられるようになりました。
「オヤ、ごらん。あんなに湯気が立っている。ワーッきれいだなあ」
保君の叫声に、筏のまわりを見ますと、その辺一ぱいに、もうもうと煙のような水蒸気が立ちのぼっていることがわかりました。それも、やはり赤い光に照らされているのか、焔のように不気味に赤く見えるのです。メラメラと一面に火がもえているようです。
「ア、あつい。グラグラわき立っているよ」
哲雄君が水に手を入れようとして、びっくりしてさけびました。うっかりすると指先をやけどするところでした。
あたりはますますあかるくなって来ました。もう洞穴の岩の形もハッキリわかるのです。汽車のトンネルの五倍もあるような大きな岩の天井と壁とが、どこから来るのか、真赤な光に照らされて、ものすごくテラテラとかがやいています。その光が水面にも反射して、水全体がもえるように赤く、そこから、今いう焔のような水蒸気が立ちのぼっているのです。
美しいといえば、これほど美しい景色はありません。しかしまた、恐しいと思えば、これほど恐しい景色はないのです。
地の底で、水が熱湯となってわき立ち、湯気を立て、何ともえたいの知れぬ真赤な光が、洞穴全体を、話に聞く地獄のように照らし出しているのです。
三人が洞穴の出口に近づいたと考えたのは、とんでもない間違だったようです。いったいぜんたいこの赤い光は何物でしょうか。太陽の光ではありません。日の出や日の入の光が赤いといっても、こんな不思議な、気味の悪い赤さではありません。
「ア、なんだか音がする。恐しい音がする」
哲雄君が、光に照らされた、鬼のような真赤な顔をゆがめて、ゾッとするような声でさけびました。
流の音もかなりはげしいのですが、それにもまして、不気味なドド……、ドド……という物音が、どこからか聞えています。そして、その音は筏が進むにつれて、だんだん高くなって来るようです。赤い光も刻一刻強くなって来るようです。