三十
「アア、やっと清々した。美しい景色じゃありませんか。あんな事件にかかわっている間、僕達はすっかりこういうものを忘れていましたね」
窓外を過ぎ行く初夏の景色を眺めながら、河野はさも伸々といいました。
「ほんとうですね。まるきり違った世界ですね」
私は調子を合せて答えました。しかし、私には、この事件の余りにもあっけない終局に、何となく腑に落ち兼ねる所がありました。例えば、死体焼却という様な世の常ならぬ想像に、それを裏書する火葬場の匂いがちゃんと用意されていたり、犯人が見つかったかと思うと、その時には彼はすでに死骸になっていたり、トランクの男の(少くともトランクそのものの)行方が絶対に分らなくなったり、考えれば考えるほど、異様な感じがします。もっと手近な事柄をいえば、今私の前に腰かけている河野自身の古ぼけた手提鞄で、その中には恐らく数冊の古本と、絵の道具と、幾枚かの着類が入れてあるに過ぎないその鞄を、彼はなぜなればあんなに大切相にしているのでしょう。一寸開くたび毎に、一々錠前を卸して、その鍵をポケットの中へ忍ばせるのでしょう。私は妙に河野の古鞄が気になりました。それに連れては、河野自身の態度までも、何とやら気掛りです。
従って、私の様子に幾らか変な所が見えたのでしょう。河野の方でも、何となく警戒的なそぶりを見せ初めました。そして、一層おかしいのは、非常に巧にさりげない風を装ってはいますけれど、私には彼の目が(というよりも彼の心そのものが)頭の上の網棚にのせた古鞄に、恐しい力で惹きつけられていることが分ります。
それは実際奇妙な変化でした。湖畔亭での十数日、当の犯罪事件に関係している間には、曾てその様な疑いの片鱗さえも感じなかった私が、今事件が兎も角も解決して、帰京しようという汽車の中で、ふと変な気持になったのです。しかし、考えて見れば、世に疑いというものは、多くはそうした唐突なきっかけから湧き出すのかも知れません。
でも、もしあの時、河野の古鞄が棚の上から落ちるという偶然の出来事がなかったなら、私のそのあるかなきかの疑念は、時と共に消え去ってしまったかも知れません。それは多分急なカーヴを曲った折でしょう。あのひどい車体の動揺は、河野に取って全く呪うべき偶然でした。それにしても、その古鞄の転落した時、折悪く卸したと思った錠前が、どうかしたはずみでうまくかかっていなかったというのは、よくよくの不運といわねばなりません。
鞄は丁度私の足下へ転がり落ちました。そして驚くべき在中品が、目の前に開いた鞄の口から危くこぼれ出す所でした。いやある品物は、コロコロと私の足の下へころがり出しさえしました。
読者諸君、それがまあ何であったと思います。細く切り離した長吉の死骸(?)いやいやまさかそんなものではありません。実は何万円とも知れぬ莫大なお札の束だったのです。それから足の下へころがった品は、これが又妙なもので、医者の使うガラス製の注射器でありました。
その時の、河野の慌て様といったらありませんでした。ハッと赤くなり、次ぎの瞬間には真青になって、大急ぎで落ちたものを拾い込み、鞄の蓋を閉じると、腰かけの下へ押込んでしまいました。私は今まで、河野という男は、理智ばかりで出来上った、鉄の様な人間かと思っていましたのに、このうろたえ様はどうでしょう。彼はきわどい所で弱点を暴露してしまいました。
河野がどの様な手早さで鞄のふたをとじたとて、その中のものを私が見逃そうはずはありません。河野も無論それを知っているのです。知りながら、彼はやがて顔色を取り直すと、さも平気な様子で、前の会話の続きを話し出すのでした。
莫大な紙幣と注射器。これが一体何を意味するのか、余りの意外さに、私は暫く物もいわないで思いまどっておりました。