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湖畔亭事件(33)
日期:2021-10-19 23:51  点击:258

三十三


「そういう訳で、僕は、脱衣場の大姿見のどの辺の所へ立てば、身体のどの部分が覗き眼鏡に映るかということを知っていたのです。丁度あの当時、覗き眼鏡が望遠鏡の様な装置になっていて、姿見の中央の部分だけが、大きく映るのでしたね。僕は君の留守中に入浴者の裸体姿の大映おおうつしを、盗み見たことがあります。そして、恐らく君もそうだったのでしょうが、僕はあの夢の様な無気味な影像えいぞうに、一種異様の魅力を感じたのです。そればかりか、もしあの水底の様によどんだ鏡の面に、何かこう血腥い光景が、例えば豊満な裸女の肩先へ、ドキドキ光る短刀がつきささって、そこから真赤な血のりが流れ出す光景などが、映ったならば、どんなに美しいだろう、という様な空想さえ描いたのでした。いうまでもなく、それはほんの気まぐれな思いつきに過ぎないもので、さっきいったもう一つの突発事件がなかったなら、それを僕自から実演しようなどとは思いも寄らぬことでした。
 あの晩、十時過ぎでもあったでしょうか、兎も角殺人事件のすぐ前なんですが、もう床についていた僕の部屋へ、突然長吉が駈込んで来ました。そして隅っこの方へ小さくなって『かくまって下さい。かくまって下さい』と上ずった声で頼むのです。見れば顔面は青ざめ、激しい呼吸のために肩が波打っています。余り唐突のことで、僕はあっけに取られてぼんやりしていましたが、間もなく廊下にあわただしい跫音がして『長吉はどこへ行った』などと聞いている声も聞えます。声の主はどうやらトランクの二人連の一人らしいのです。
 それから随分方々ほうぼう探し廻っていた様ですが、まさか長吉と僕とが馴染の間柄で、僕の部屋に逃げ込んだとは、女中にしたって想像もしなかったでしょう。トランクの男はとうとう空しく引返した様子でした。僕は何が何だかさっぱり訳が分らず、やっと安心したのか部屋の真中へ出て来た長吉を捉えて、兎も角も事の仔細を問いただしました。すると、長吉がいいますには、丁度その晩も例の旦那の松村なにがしが宴席に来ていて、酔ったまぎれに余りひどい事をいったりしたりするので、長吉は座にいたたまらず、その場をはずして、あてもなく廊下を歩き廻っていたのだそうですが、通りすがりに、トランクの男の部屋のふすまがあいていて、中に誰もいないのを見ると、長吉はふとある事を思いついたのです。それは、御承知でしょう、長吉は度々トランクの男に呼ばれていたのですが、何かの機会にあのトランクの中に大金の隠されているのを知ったのです。手の切れ相なお札の束が幾万円とも知れず入っているのを見たのです。マア待って下さい。おっしゃる通りこの鞄の中にあるのがその金ですが、どうして私の手に入ったかはこれから追々おいおいお話しますよ。
 長吉はその金のことを思い出し、あたりに人のいないのを見て、悪心を起したのです。その内のほんの一束か二束で、明日からでも自由の身になり、いやな松村の毒手をのがれることが出来る。そう思うと、松村の乱暴でいくらか取りのぼせていたのでしょうね。彼女はいきなり部屋へ入って、トランクを開こうとしました。しかし、無論錠前が卸してあるのだから、女の細腕で開くはずがない。それを、彼女はもう夢中で、蓋の隅の方を無理に持上げて、そのすき間から指を入れ、やっとの思いで数十枚のお札を抜き出すことが出来ました。が、そうした事に不慣れの彼女はわずか一束の紙幣を抜きとるのに可成の時間を費したらしく、ふと気がついた時には、いつの間にか、うしろにトランクの主が恐しい剣幕けんまくで立ちはだかっていたのです。
 長吉が僕の部屋へ逃げ込んで来たのは、まあそういう訳だったのです。が、ここに不思議なのは、トランクの持主の態度でした。普通だったら、長吉の行方が分らぬとなれば、早速その事を宿の帳場に通じて、詮議させるべきですが、一向その様子がない。長吉が余り心配するものですから、僕はそっとトランクの男の部屋へ忍んで行って様子を見ましたが、妙なことに彼等は大あわてで出発の用意をしているじゃありませんか。こんな辻褄つじつまの合わぬ話はありません。これは何か彼等の方にも秘密があるに相違ない。長吉に金を盗まれたことを怒るよりも、彼女にトランクの中味を知られたことの方を恐れているのかも知れない。長吉が見たという莫大な紙幣の束、しかもそれをトランクの中へ入れて持ち歩いている。考えて見れば変なことばかりです。彼等はひょっとしたら大泥坊か、さもなくば紙幣贋造者がんぞうしゃではないだろうか。当然僕はこんな風に考えました。
 部屋へ帰って見ると、長吉はもう身も世もあらず泣きふしています。そして持前のヒステリー発作を起して、例の『一緒に死んでくれ』を初めるのです。それが、僕までも、どうにも取返しのつかない、いやにせっぱつまった、狂気めいた気分にして了いました。そして、この悪夢の様な気分から、僕はふと途方もないことを考えついたのです。『そんなにいうなら、殺して上げよう』僕はそういって長吉を湯殿へつれ込みました。焚場を覗いて見ると、幸三造はいない。そこの棚の上には彼の短刀がのっかっている。(これは前から見て置いて知っていました)で御承知の兇行が演じられた訳なんです」


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