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湖畔亭事件(34)
日期:2021-10-19 23:51  点击:270

三十四


「そういう際ながら、僕にはあの激情的な美しい光景を、君に見せて上げたい気持があったのです。ひょっとしたら、長吉を逃すことよりも、その方が(おも)な動機だったかも知れませんよ。しかし丁度その時、君が眼鏡を覗いていてくれたかどうか、もし覗いていなかったとすると、折角のお芝居が何の甲斐もないことになります。そこで、僕はもっと現実的な証拠として、前以って脱衣場の板の間に血を流して置くことを考えつきました。でも、これとても本当に気まぐれな、お芝居気たっぷりな咄嗟の思いつきに過ぎなかったのです。
 僕はある旅先で、友達から注射器を貰っていました。僕の癖としてそういう医療器械などにいうにいわれぬ愛着を感じるのですね。おもちゃの様に、しょっちゅう持ちあるいていたのですよ。で、(その)注射器によって、長吉の腕からと、私の腕からと、両方合せて茶碗に一杯程の血潮を取り、それを海綿で以て板の間へぬりつけた訳なのです。恋人の血を取って自分の血に混ぜ合せる、その劇的な考えが僕を有頂天にしてしまったのです」
「でもたった茶碗に一杯の血が、どうしてあんなに沢山に見えたのでしょう。人一人が死ぬほどの量に見えたのでしょう」私は思わず口をはさみました。
「そこですよ」河野はいくらか得意らしく答えました。「それはただ、拭き取るのと、塗りひろげるのとの相違です。誰にしても、まさか、血潮を塗りひろげた者があろうとは考えませんからね、拭きとったとすれば、あれだけの痕跡は、確に人一人殺すに足る分量ですよ、ところが本当は、さも拭き(とっ)た跡らしく見せかけて、その実出来るだけ広く塗り廻したのです。商売の絵心で以て、柱や壁のとばっちりまで、(ごく)念入りに拵え上げ、余ったのを短刀の先に塗りつけて、例のブリキ箱に入れて置いたのです。無論長吉はその場から逃がしてやりました。彼女にしては、泥坊の汚名を着るか、自由の身になるかの瀬戸際(せとぎわ)ですから、怖がっている場合ではありません。山伝いに闇にまぎれて、Y町とは反対の方へ走りました。無論落ちつく先きはちゃんと申し合せてあったのです」
 私はあまりあっけない事実に、いくらかがっかりしないではいられませんでした。しかし、疑問はこれですっかり解けたのでしょうか。いやいやあれが単なるお芝居であったとすると、益々不可解な点が出来て来ます。
「それじゃ例の人間を焼く匂いはどこから来たのでしょう」私は性急に問いかけました。「又、三造はどうして変死をとげたのでしょう。そして、それがなぜ君の責任なのか、どうもよく分りませんね」
「今お話ししますよ」河野は沈んだ調子で続けました。「それからあとは、君も大概(たいがい)御承知の通りです。幸トランクの男が、想像に(たが)わず何かの犯罪者であったと見え、夜の内に姿をくらまし、あれほど探しても行方が分らないものですから、僕のお芝居が一層本当らしく見え、被害者長吉、加害者トランクの男と極めてしまって、警察を初め少しも疑う者がないのです。しかし、事件の発頭人(はっとうにん)である僕にしては、騒ぎが大きくなればなるほど、もう心配でしようがありません。今更あれはいたずらだったと申出る訳にも行かず、そうかといって黙っていれば、いつトランクの男が捉えられて真相が暴露しないとも限りません。一時の出来心に任せて、とんでもないことを仕出(しで)かしてしまったと、僕はどれ程後悔したことでしょう。そんな訳で、長吉が約束の場所で首を長くして待っているにも拘わらず、そこへ行くことが出来ません。事件がどちらかにかたづいてしまうまでは、どうしても湖畔亭を立去る気になれません。この十日ばかりというもの、表面に苦しい平気を装いながら、僕がどんな地獄を味わっていたか、とても局外者には想像出来ないだろうと思います。
 僕は探偵を気取って、君と一緒に色々なことをやりましたが、実はどこから僕のお芝居がばれてくるか、ビクビクものでそれを待っていた訳なんです。ところが、例の覗き眼鏡をとり外していた時、突如として新しい登場者が現れました。あの晩の怪しい人影は僕はわざと隠していましたけれど、風呂番の三造だったのです。彼が宿の主人の財布を落して行ったのは、前にもいった彼の盗癖から考えてさして驚くにも当らぬことですが、おかしいのは中にあった五百円です。主人は自分の金だといいます。けれど、どうもそぶりが変です。彼は評判の慾ばり(じじい)ですから、当てになったものではありません。そこで、僕は三造がこの事件に関聯して何か秘密を持っているに相違ないと目星をつけ、彼の身辺につき纒って探偵を始めました。そして、その結果驚くべき事実を発見したのです」


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