三十五
「三造は例の大トランクを二つ共、どこから拾って来たのか、焚場の石炭の中に隠していたのです。トランクの男達は、多分目印しにされることを恐れて、トランクを山の中に隠し、身をもって逃げ去ったのでしょうが、三造はそれを見ていたのかも知れません。或は後になって、森の中へ枯枝を集めに行った時に偶然発見したのかも知れません。兎も角、中味の莫大な紙幣もろとも、彼はトランクを盗んでいたのです。これであの財布の中の五百円も解釈がつく訳ですね。しかし、トランクの持主が、たとえ危急の際であったとはいえ、あの大金を惜げもなく捨てて行ったというのは、少々変です。やっぱり贋造紙幣だったのでしょうか。それとも後日取りに来る積りで、人目につかぬ所へ埋めてでも置いたのでしょうか。あの大風の晩に懐中電燈で森の中を探し廻っていた男は、ひょっとしたら、彼等の命を受けてトランクを探しに来た一味の者だったかも知れませんね。
事件は段々複雑になって来ました。どうなることか少しも見当がつきません。僕の向う見ずないたずらが、この様な大事件になろうとは、全く予想外で、随って心配は益々強くなるばかりです。ところが、四五日以前、警察の大がかりなトランク捜索がはじまる頃には三造も自分の所業に恐れを抱きはじめました。そして、その唯一の証拠品であるトランクを、風呂竈で焼くことを思いつきました。人の寐静まった頃を見はからい、トランクをこわしては、少しずつ焼き捨てて行くのです。僕は現にそれを隙見していたのですが、まさか対岸の村まで獣皮の匂いが漂って行こうとは思いませんでした。いうまでもなく、これが死体を焼く匂いと間違えられた訳です。僕はかつて、外国にもこれと似た事件のあったことを聞いています。何でも田舎の一軒家の煙突から盛んに黒煙が出て、火葬場の匂いがするものですから、村人が騒ぎ出し、てっきり死体を焼いているものと思って調べて見ると、あにはからんや、古靴かなんかをストーヴに投げ込んだものと分りました。その家の主人がある殺人事件の嫌疑者だったために飛んだ騒ぎになったのです。
しかし、僕はその当時そこまで考えた訳ではありません。ただもう途方に暮れてしまったのです。もしこの愚者の軽挙から事の真相がばれる様なことがあってはと、それが先ず心配でした。で、少しでも発覚を遅らせる意味で、僕は三造を逃亡させようと計りました。警察で彼を疑い出したことを、それとなくほのめかし、彼を怖わがらせたのです。悪人にしろ、そこは愚ものの事です。僕の計画を見破るどころか、トランクを盗んだということから、直に殺人の嫌疑までかけられるものと思い込み、丁度村の巡査が僕を訪ねて来た日です、彼は例の紙幣の束だけを風呂敷包みにして、彼の故郷である山の奥へと逃げ出したのです。僕は計画がまんまと成功したのを喜び、寧ろ彼を護衛する様な心持で、そのあとを尾行しました。
ところが、その途中、あの桟道の所で、思いがけぬ出来事が起ったのです。余りに道を急いだために、三造は崖から辷り落ちて変死をとげてしまったのです。僕は大急ぎで下におりて、介抱して見ましたが、最早や蘇生の見込みはありません。考えて見れば可哀相な男です。悪人といっても、それは彼の白痴と同様、彼自身にはどうすることも出来ない生れつきだったのでしょう。それを僕の利己的な気持から逃亡を勧めたばかりに、彼はもっと活きられた命を、果敢なくおとしてしまったのです。僕は非常な罪を犯した様な気がして、無慙な死骸を正視するに耐えず、兎も角、紙幣の風呂敷包みだけを拾って、急を知らせるために宿へ引返しました。
ところが、その途中、僕はふとある妙案を思いついたのです。三造は可哀相だとはいえ、もう死んでしまった者だ。もしすべての罪を彼に着せることが出来たなら、長吉はいつまでも死んだものとして、全く自由な一生を送ることが出来、従って自分も最初夢想した様な幸福を味わい得るではないか、それには幸、短刀といい、手の甲の筋といい、三造の日頃の盗癖といい、都合のよいことが揃っている。そこで僕は、俄に三造の変死を知らせることを中止して、彼に罪をなすりつける理窟を考えはじめたものです。丁度そこへ、村の巡査が例の匂いのことを知らせてくれました。すっかり陣立てが出来上ったのです。僕は巡査と君の前で、考えて置いた理窟を陳述すればいいのでした。
紙幣は一寸見たのでは、贋造かどうか分りません。もし本物であったら、僕は一躍大金持ちになることが出来ます。そんな慾心から、お恥かしいことですが、つい焼きすてるのが惜くなり、兎も角も鞄の底に納めて置いたものです。それを君に見られてしまい、このまま分れてはどうしたことで君の口から真相がばれないものでもなく、いっそ本当のことを白状してしまった方が安全だと思ったものですから、こうしてお引留した訳です。つまりこの事件には犯罪というほどのものは一つもなく、長吉のヒステリーと僕の気まぐれから出発して、幾つもの偶然が重なり合い、非常な血腥い大犯罪らしいものが出来上ってしまったのです」
河野はため息と共に長物語を終りました。私は裏面の事実の意外さに、暫くは物をいうことも出来ませんでした。
「そういう訳ですから、どうかこのことは君の腹だけに納めて、誰にも話さないで下さい。もしこれがばれて、元の雇い主に呼び戻される様なことがあれば、長吉はきっと生きてはいないでしょう。僕も世間に顔むけの出来ないことになります。どうかこの僕の願いを聞き入れて下さい。誰にも話さないと誓って下さい」
「承知しました」私は河野の態度に引入れられ、さも沈痛な調子で答えました。「決して他言しません。どうか御安心下さい。そして一刻も早く長吉のいる所へ行って、あの人をも安心させて上げて下さい。僕は蔭ながらお二人の幸福を祈っています」
そして、私は一種の感激を以て河野と別れを告げたのです。河野は私の汽車の出るのを。感謝をこめたまなざしで、永い間見送ってくれました。
それ以来私は彼等を見ません。河野とは二三度文通はしましたけれど、彼等の恋がどの様な実を結んでいたかは知る由もないのです。ところが最近河野から珍しく長文の手紙を受け取りました。彼は長々と私の往年の好意を謝した上、愛人長吉の死を告げ、彼自身も友人の事業に関係して南洋のある島へ旅立つことを知らせて来たのです。その文面によれば、彼は恐らく再び日本の土を踏むことはありますまい。もはや事件の真相を発表しても差支えない時が来たのです。
読者諸君。以上で私の退窟なお話は終りをつげました。例の莫大な紙幣が本物であったかどうかは、つい聞く機会がありませんでしたが、恐らく贋造紙幣ではなかったかと思います。
ただ一つ、ここにある重大な疑問が残されています。私は河野に別れて以来、日をふるにつれて色濃くなって来るその疑問に、形容の出来ない悩ましさを感じ初めました。もし私の想像が当たっているとすれば、私はにくむべき殺人者を、ゆえなく見逃がしたことになるのです。でも、今はまだその疑いをあからさまにいうべき時機ではありません。河野は生きているのです。しかも、彼はお国のために海外に出稼ぎをしているのです。数年前に死んでしまったおろか者の三造の故に、何を好んで、今更犠牲者を出す必要がありましょう。