赤いほのお
「ねえ、おじいさん、いったいあたしを、どうしようっていうの?」
小林君は、あくまで女の声で、板の穴に口をよせるようにして叫ぶのでした。すると、よっぱらいじいさんのわめき声が、答えました。
「ワハハハ……心配かね? なあに、おまえを取って食おうとはいわないよ。ただね、ちょっと酒のさかなにするまでさ。おまえの声が聞こえなくては、酒がうまくないからね。ワハハハハ……。」
怪老人は、またよろいびつにこしかけて、ピチャピチャと、舌なめずりをしながら、ウイスキーを飲みはじめました。一口飲んでは、わけのわからないことを、しゃべりちらすのです。そして、とほうもない笑い声をたてるのです。はじめから気ちがいみたいなやつが、すっかり、よっぱらったのですから、いうことは、めちゃめちゃでした。
小林君は、ばかばかしくなって、口をつぐんでしまいました。よっぱらいになにをいっても、むだだと思ったからです。
怪老人は、それから三十分ほども、いいたいままの悪口をたたいていましたが、そのうちに、だんだん、ろれつがまわらなくなり、ことばのほかに、みょうな音がまじるようになってきました。いびきです。箱にこしかけたまま、いびきをかきはじめたのです。
とつぜん、ガチャンとガラスのわれる音がしました。手に持っていたウイスキーのびんか、コップが、床に落ちたのでしょう。
まもなく、どしんと大きなひびきをたてて、怪老人が、箱からころがり落ちました。そして、あとは、しいんとしずまりかえったアトリエの中に、老人のいびきの音だけがつづいていました。
じいさんはとうとう、よいつぶれてしまったのです。小林君は、このまに逃げださなければと思いました。そして、ありったけの力をふるって、頭と肩で箱のふたをおしあげようとしました。
しかし、がんじょうなよろいびつは、びくともしません。なんどもなんども、ぶっつかっているうちに釘がゆるんで、ふたがいくらか持ちあがったように思われましたが、小林君はもう力がつきて、ぐったりとなってしまいました。
そうしてじっとしていますと、箱の外で、かすかな音がしているのに気がつきました。老人が目をさましたのかと思いましたが、いびきは、あいかわらず聞こえているのです。そのいびきにまじって、もっとべつの、かすかな音をたてているものがあるのです。
老人のほかに、なにものかがいるのです。それにしても、いつのまに、だれがはいってきたのでしょう。ごそごそと動く音のほかに、かすかな息づかいさえ聞こえてくるではありませんか。
小林君はゾーッとしました。アトリエの中へ、老人とはべつのなにものかがしのびこんで、こっそりと、なにかやっているのです。人間でしょうか。それとも、人間よりも、もっと恐ろしいやつでしょうか。
じっと息をころして、聞き耳をたてていますと、やがて、そのかすかな音はやんでしまいましたが、べつに立ちさった足音も聞こえません。うす暗い部屋のすみに、じっと、うずくまっているのかもしれません。しかし、なんのために? ああ、いったいなんのために?
小林君は、どうしていいのかわかりません。しのびこんできたやつに、声をかけようかとも思いましたが、もし怪老人の仲間だったら、たいへんです。
ためらっているうちに、時間がたっていきました。しかし、いくら待っても、さっきのあやしい音は、もう聞こえてきません。老人のいびきのほかは、しいんと、しずまりかえっています。
まっ暗なせまい箱の中で、じっとしているのは、じつにへんな気持です。やがて、小林君はまた、きみょうなもの音に気づきました。こんどは、人間が動いている音ではありません。パチパチと、なにかがはぜるような音です。
そのうちに、へんなにおいが箱の中までただよってきました。もののこげるにおいです。では、あのかすかな、パチパチという音は、火が燃えているのでしょうか。
ああ、たしかにそうです。こげるにおいは、だんだん強くなってきました。パチパチとはぜる音は、いよいよはげしくなってきました。
そればかりではありません。箱の穴から、スーッと白い煙がはいこんできました。
煙はますますこくなり、むせっぽくなってきました。そして箱の穴に、ろうそくの光とはちがった、ぶきみな赤い光が、ちろちろとまたたき、箱のまわりが、みょうに熱くなってきたではありませんか。火事です。アトリエが火につつまれているのです。
どうして火事がおこったのでしょう。よっぱらいの老人が、ろうそくをたおして、その火が燃えうつったのでしょうか。いや、そうではなさそうです。さっきのかすかなもの音、なにものかがしのびこんできたようなもの音が、あやしいのです。