「わしがほんものじゃ」
「この人でした。この人にちがいありません。」
小林君は、キッパリと答えました。
「ハハハ……、どうだね、きみ、子どもの眼力にかかっちゃかなわんだろう。きみが、なんといいのがれようとしたって、もうだめだ。きみは二十面相にちがいないのだ。」
中村係長は、うらみかさなる怪盗を、とうとうとらえたかと思うと、うれしくてしかたがありませんでした。勝ちほこったように、こういって、真正面から賊をにらみつけました。
「ところが、ちがうんですよ。こいつあ、こまったことになったな。わしは、あいつが有名な二十面相だなんて、少しも知らなかったのですよ。」
紳士に化けた賊は、あくまでそらとぼけるつもりらしく、へんなことをいいだすのです。
「なんだって? きみのいうことは、ちっともわけがわからないじゃないか。」
「わしもわけがわからんのです。すると、あいつがわしに化けてわしを替え玉に使ったんだな。」
「おいおい、いいかげんにしたまえ。いくらそらとぼけたって、もうその手には乗らんよ。」
「いやいや、そうじゃないんです。まあ、落ちついて、わしの説明を聞いてください。わしは、こういうものです。けっして、二十面相なんかじゃありません。」
紳士はそういいながら、今さら思いだしたように、ポケットから名刺入れを出して、一枚の名刺をさしだしました。それには『松下庄兵衛』とあって、杉並区のあるアパートの住所も、印刷してあるのです。
「わしは、このとおり松下というもので、少し商売に失敗しまして、今はまあ失業者という身のうえ、アパート住まいのひとり者ですがね。きのうのことでした。日比谷公園をブラブラしていて、ひとりの会社員ふうの男と知りあいになったのです。その男が、みょうな金もうけがあるといって、教えてくれたのですよ。
つまり、きょう一日、自動車に乗って、その男のいうままに、東京中を乗りまわしてくれれば、自動車代はただのうえに、五千円の手あてを出すというのです。うまい話じゃありませんか。わしはこんな身なりはしていますけれど、失業者なんですからね、五千円の手あてがほしかったですよ。
その男は、これには少し事情があるのだといって、何かクドクドと話しかけましたが、わしはそれをおしとどめて、事情なんか聞かなくてもいいからといって、さっそく承知してしまったのです。
そこで、きょうは朝から自動車でほうぼう乗りまわしましてな。おひるは鉄道ホテルで食事をしろという、ありがたいいいつけなんです。たらふくごちそうになって、ここでしばらく待っていてくれというものだから、ホテルの前に自動車をとめて、その中にこしかけて待っていたのですが、三十分もしたかとおもうころ、ひとりの男が鉄道ホテルから出てきて、わしの車をあけて、中へはいってくるのです。わしは、その男を一目見て、びっくりしました。気がちがったのじゃないかと思ったくらいです。なぜといって、そのわしの車へはいってきた男は、顔から、背広から、がいとうからステッキまで、このわしと一分一厘もちがわないほど、そっくりそのままだったからです。まるでわしが鏡にうつっているような、へんてこな気持でした。
あっけにとられて見ていますとね、ますますみょうじゃありませんか。その男は、わしの車へはいってきたかと思うと、こんどは反対がわのドアをあけて、外へ出ていってしまったのです。
つまり、そのわしとそっくりの紳士は、自動車の客席を、通りすぎただけなんです。そのとき、その男は、わしの前を通りすぎながら、みょうなことをいいました。
『さあ、すぐに出発してください。どこでもかまいません。全速力で走るのですよ。』
こんなことをいいのこして、そのまま、ごぞんじでしょう、あの鉄道ホテルの前にある、地下室の理髪店の入り口へ、スッと姿をかくしてしまいました。わしの自動車は、ちょうどその地下室の入り口の前にとまっていたのですよ。
なんだかへんだなとは思いましたが、とにかく先方のいうままになるという約束ですから、わしはすぐ運転手に、フル・スピードで走るようにいいつけました。
それから、どこをどう走ったか、よくもおぼえませんが、早稲田大学のうしろのへんで、あとから追っかけてくる自動車があることに気づきました。なにがなんだかわからないけれど、わしは、みょうにおそろしくなりましてな。運転手に走れ走れとどなったのですよ。
それからあとは、ご承知のとおりです。お話をうかがってみると、わしはたった五千円の礼金に目がくれて、まんまと二十面相のやつの替え玉に使われたというわけですね。
いやいや、替え玉じゃない。わしのほうがほんもので、あいつこそわしの替え玉です。まるで、写真にでもうつしたように、わしの顔や服装を、そっくりまねやがったんです。
それがしょうこに、ほら、ごらんなさい。このとおりじゃ。わしは正真正銘の松下庄兵衛です。わしがほんもので、あいつのほうがにせ者です。おわかりになりましたかな。」
松下氏はそういって、ニューッと顔を前につきだし、自分の頭の毛を、力まかせに引っぱってみせたり、ほおをつねってみせたりするのでした。
ああ、なんということでしょう。中村係長は、またしても、賊のためにまんまといっぱいかつがれたのです。警視庁をあげての、凶賊逮捕の喜びも、ぬか喜びに終わってしまいました。
のちに、松下氏のアパートの主人を呼びだして、しらべてみますと、松下氏は少しもあやしい人物でないことがたしかめられたのです。
それにしても、二十面相の用心ぶかさはどうでしょう。東京駅で明智探偵をおそうためには、これだけの用意がしてあったのです。部下を空港ホテルのボーイに住みこませ、エレベーター係を味方にしていたうえに、この松下という替え玉紳士までやといいれて、逃走の準備をととのえていたのです。
替え玉といっても、二十面相にかぎっては、自分によく似た人をさがしまわる必要は、少しもないのでした。なにしろ、おそろしい変装の名人のことです。手あたりしだいにやといいれた人物に、こちらで化けてしまうのですから、わけはありません。相手はだれでもかまわない。口車に乗りそうなお人よしをさがしさえすればよかったのです。
そういえば、この松下という失業紳士は、いかにものんき者の好人物にちがいありませんでした。