生か死か
聞こえるものは、ゴウゴウとうずまきかえす水の音ばかり。もうふたりは身動きすることさえできず、おたがいのからだをひしとだきあって、そこに立ちすくんでいるほかはありませんでした。
足の先におしよせた水が、たちまちのうちに、ひざの高さになり、やがて、パンツをぬらして腰のほうへのぼってくるのです。
もうそのころには、両方の穴からあふれ出る水の音は聞こえなくなっていましたが、そのほうがかえってぶきみです。音がしなくなったのは、水かさがまして、水面が流れこむ水よりも高くなったためで、けっして水がとまったのではありません。
やみの中の水面は、音もなく、刻一刻高くなって、だきあっているふたりにはいのぼってきました。腰はもうすっかり、水につかり、それからおなかがつめたくなり、はては、胸のへんまでも、ジャブジャブとまっ黒な水がのぼってきたのです。
からだがふらふらして、もう立っていることもできません。
「きみ、泳げる?」
小林少年が、のどのつまったような声で、不二夫君にたずねました。
「うん、およげるけど……だって、この穴の天井まで、水がいっぱいになったらどうするの? ぼくたち息ができなくなるじゃないか。」
それはもっともな心配でした。この小部屋のような場所は、天井の岩もかなり高いようでしたが、いくら高くても、もしそこが、ほかの海面よりも低いとすると、その穴は水でいっぱいになってしまうかもしれません。そうすれば、ふたりは息もできなくなって、おぼれ死ぬほかはないのです。
「不二夫君、明智先生はね、いつもぼくにこういって教えてくださるんだよ。もし、いのちがあぶないというようなめにあったら、たとえ助かるみこみがないと思っても、最後の一秒までがんばらなけりゃならないって。けっしてあきらめてしまわないで、なんでもいいから、少しでも助かるように、できるだけの力をふりしぼって、はたらくんだって。
そのことを、運命と戦うっていうんだよ。戦わないで、まけてしまっちゃ、だめなんだよ。だからね、きみ、失望しちゃいけないよ。最後までがんばるんだ、さあ、泳ごう。泳いで、泳いで、この水のやつと根くらべをしてやろうじゃないか。」
さすが明智探偵の名助手といわれるだけあって、小林君は、けなげな決心をして、自分より小さい不二夫君をはげますのでした。
不二夫君も、この力づよいことばに、少し元気をとりもどしました。そして、ふたりは手をつないだまま、まっくらなつめたい水の中で、立ち泳ぎをはじめました。
ただ浮いてさえいればいいのですから、べつにつかれるようなことはありませんでしたが、たださえ寒い地の底で水の中につかっているのですから、そのつめたさはひととおりではありません。さいわい春のおわりのあたたかい気候でしたから、海の水もそれほどつめたくはなかったのですが、もしこれが冬のさなかのできごとでしたら、ふたりは、たちまちこごえ死にをしてしまったにちがいありません。
「不二夫君、しっかりしたまえ。下っ腹に力を入れておちついているんだよ。こうして泳いでいるうちには海が引き潮になるよ。そうすれば、水が流れこまなくなるし、ここにたまった水も、岩のすきまから外へ流れだしてしまうにきまっているからね。ぼくらはただ、がんばっていればいいんだよ。」
小林君はやみの中で、しきりに不二夫君をはげましました。
「ぼく、めくらになったんじゃないかしら。ほんとうに、なんにも見えないんだもの。きみは何か見える?」
不二夫君は泳ぎながら、心ぼそそうにたずねました。
「ぼくだって、見えないよ。めくらって、こんなもんだろうね。」
ほんとうに、目というものがなくなってしまったのも同じことでした。ただ声が聞こえるのと、水のつめたさと、にぎりあっている、おたがいの手ざわりがあるばかりなのです。
みなさん、ちょっと目をつむって、このふたりのありさまを考えてごらんなさい。こんなさびしい、心ぼそい、おそろしい心持ちがまたとあるものでしょうか。
しばらくして、不二夫君が泣きだしそうな声でいいました。
「ねえ、まだ水がふえているんだろうか。」
「うん、まだ引き潮にはならないだろうね。ぼく、もぐって、しらべてみようか。」
小林君はあくまで元気でした。
「よしてよ、手をはなしちゃいやだよ。」
不二夫君は、このやみの中で、一度手をはなしたら、それっきり、小林君とはぐれてしまうような気がしたのです。
「だいじょうぶだよ。ちょっともぐってみるよ。」
小林君は、そういったかと思うと、にぎりあっていた手をはなして、ぐうんと水の底へしずんでいきました。
不二夫君は、その水音を聞いて、もう気が気ではありません。名を呼んだところで、水の中の小林君に聞こえるはずはありませんから、呼びたいのを、じっとがまんして、耳をすまして待っていました。わずか三、四十秒のあいだでしたが、それが不二夫君には、とても長く感じられたのです。
すると、ややしてから、ガバガバと水が動いて、ブルッと手で顔の水をふく音が聞こえました。そして、小林君の声がさけびました。
「わあ、深い。とてもふかいよ。だいじょうぶ二メートル以上あるよ。まだぐんぐん水が流れこんでいる。」
「え、まだ流れこんでいる?」
不二夫君はがっかりしてしまいました。いや、がっかりしたばかりではありません。さっきのことが、また心配になりはじめたのです。このほら穴の天井まで、水でいっぱいになって、息ができなくなるのではないかという、あのおそろしい考えが、ひしひしとよみがえってきたのです。
不二夫君が、そのことをいおうかいうまいかと、ためらっていますと、またしても、小林君が、びっくりするようなさけび声をたてました。
「あ、へんだな。ねえ、不二夫君、水が流れはじめたよ。ぼくらはどっかへ流されているんだよ。わからない? ほら、ぐんぐん流れているじゃないか。」
そういわれて、気をつけてみますと、いかにも、急に水が動きだしていることがわかりました。
「あ、ほんとだ、それじゃ、いよいよ引き潮になったのかしら。」
不二夫君も、大きな声でさけびました。
「そうじゃないよ。今ぼくがもぐって、しらべてきたばかりだもの。まだ水はおそろしいいきおいで流れこんでいるんだよ。へんだなあ。いったいどうしたんだろう。」
さすがの小林君も、このきみょうな水の動き方を、どう考えてよいのか、すこしもわかりませんでした。
なんとなく、うすきみが悪いのです。またしても、何か思いもよらぬおそろしいことが起こるのではないかと、心臓がドキドキするばかりです。
水の動き方はだんだんはげしくなってきました。たしかに一方にむかって流れているのです。おそろしいいきおいで流れているのです。ふたりはまた手を取りあって、流されまいと、ぎゃくに泳いでみましたが、だめでした。急流のような早い流れにさからうことはできません。
それは流れているというよりも、どこかへすいよせられているような感じでした。ほら穴の中の水が、四方から、ある一ヵ所にむかって、うずまきのようになって、すいよせられているのです。
いったいこれはどうしたというのでしょう。何物が、こんなおそろしい力で、水をすいよせているのでしょう。ふたりの少年は、べらぼうに大きなまっ黒な怪物を想像しないではいられませんでした。その怪物が大きな口を開いて、ほら穴の中の水を、ひとのみにしようとしている姿を思いうかべて、ほんとうにふるえあがってしまいました。