魔人と名探偵
その夕方、手塚家には、主人の手塚さん、昌一、雪子のきょうだい、書生と女中、それから戦災者で手塚家に同居している会社員の平林さんとおくさん、そのおくさんの妹のみよ子おばさん、中学生の太一君、まだ学校へ行かぬ太一君の小さい妹ふたり、全部あわせると十一人です。そのほかに庭の要所要所にお巡りさんが八人もがんばっています。明智探偵と小林君はまだ来ませんが、小さい女の子たち三人は別としても、つごう十六人で見はっているわけですから、いくら魔物でも、まさかこの中へ姿をあらわすことはないだろうと、手塚さんもいくらか気をゆるしていました。
ところが傍若無人の怪物は、どこをどうしてはいったのか、いつのまにか邸内にしのびこみ、まだ日もくれぬうちに、人々の前に、あのいやらしい姿をあらわしたのです。しかも、それが、りくつではどんなに考えてもわからないような、ふしぎな気味のわるいあらわれかただったのです。
台所のほうで「キャーッ」という女の悲鳴がきこえました。おどろいて、近くにいあわせた人たちが、かけつけてみますと、同居の平林さんの家族みよ子おばさんが、まっさおになって倒れていました。
みよ子さんが湯殿の前を通りかかると、中で何か動いているものがあるので、戸をひらいたところが、そのうす暗い洗い場のすみに、大きな銅像みたいなものが立っていたというのです。
しかし庭には見はりがいるんだし、家の中には、あちこちの部屋に人がいたのですから、だれの目にもふれないで、あの怪物が湯殿にはいったり出たりしたというのは、まったく考えられないことです。みよ子さんがこわいこわいと思っているものだから、まぼろしでも見たんだろうということになりました。
しかし、それはまぼろしではなかったのです。それから三十分もたたないうちに、こんどは昌一君と平林太一君とが、怪物にぶつかってしまったのです。
手塚家は非常に広い建物ですから、曲がり曲がった長い廊下がほうぼうにあるのですが、その中でも一番陰気なのは、たんすなんかならべてある納戸の前の廊下で、一方は窓のないかべ、一方は納戸の障子、その障子の中の部屋は六畳ぐらいで、三方ともかべになっているのですから、昼間でもうす暗い場所です。昌一君と太一君とが、そこを通りかかった時、納戸の障子が一本だけひらいていたので、ふと中を見ますと、そこに大きな人間の形をしたものが立っていました。
「おとうさんですか。」
昌一君は暗くてよくわからないものですから、そう声をかけてみました。すると、その者は、答えるかわりに、フラフラと身うごきしたかと思うと、ギリギリギリと歯ぎしりの音を立てました。忘れもしない、庭の林の中で聞いた歯車の音です。ギョッとして、よく見ると、そいつはあの銅像みたいな怪物でした。
ふたりはゾッとして立ちすくみましたが、どちらが先にともなく、いきなりもと来たほうへかけだしました。
すると、ちょうど一つおいてつぎの部屋に平林さんのおじさんとおばさんの姿が見えたので、
「たいへんです。納戸に、あいつが……。」
と、思わず大声をたてました。
しばらくして、四人が手をつなぐようにして、こわごわ納戸のほうへ近づいていきますと、ふたりのかけだす音を聞きつけたのか、納戸のむこうのほうの廊下からも、手塚さんと書生とが、あわただしくこちらへやって来ました。そのあとからふたりのお巡りさんもついて来ます。
「昌一、どうしたんだ。何か見たのか。」
昌一君はだまって納戸の障子を指さしました。物をいうのもこわいのです。
おとうさんやお巡りさんたちも、障子のところまで近づいて来ました。ふたりのお巡りさんはもうピストルを握っています。そして昌一君の指さすのを見ると、そのピストルを前にかまえて、いきなり暗い納戸の中へふみこんで行きました。
昌一君は、今にもピストルが発射されて、とっくみあいがはじまるのではないかと、ビクビクしていましたが、納戸の中からなんの物音も聞こえず、とつぜんパッと電灯がつきました。お巡りさんがスイッチを入れたのです。
それに力をえて、みんなが開いた障子の所へ行って、中をのぞいてみますと、そこにはふたりのお巡りさんがいるばかりで、さっきたしかに見た怪物は、影も形もないのです。青銅の魔人はまたしても、煙のように消えてしまったのです。
「おかしいな。君たち何か見ちがえたんじゃないかね。もしだれかがこの部屋にいたとすれば、逃げだすひまは、まったくなかったんだからね。自分たちはあっちから、あんたたちはそっちから、はさみうちにしたわけだね。この部屋は廊下に面した一方口で、三方はかべになっているし、廊下も窓のないかべなんだから、われわれの目につかないで逃げだすことは、絶対にできないはずだ。」
ひとりのお巡りさんが、昌一君の顔をジロジロ見ながらうたがわしそうにたずねました。
「いいえ、気のせいじゃありません。たしかに銅像みたいなやつが動いていました。」
「そうです。ぼくも昌一君といっしょに見たんです。それから、あの歯車の音も聞こえました。ギリギリ、ギリギリ、いつまでもつづいていました。」
中学生の太一君までがいいはるので、おとなたちも、信じないわけにはいきません。あまりの気味わるさに、みんな青くなってしまいました。金属でできた人間が、一瞬間に透明な気体になってしまうなんて、科学の力では説明できないことです。では、やっぱり幽霊なのでしょうか。しかし、だれも幽霊などを信じる気になれません。ただ、不思議というほかはないのです。ところが、ふしぎはこれだけでおわったのではありません。やがて、もっともっとふしぎなことが、しかも名探偵明智小五郎の目の前でおこるのです。
怪物が家の中にしのびこんだとわかると、手塚さんは蔵の見はりを、いよいよ厳重にしました。蔵の外の三方には、お巡りさんがふたりずつ立ち番をしています。正面の入り口の前は広い廊下になっているのですが、そこには長イスを置いて、手塚さんと平林さんと、ふたりのお巡りさんが、たえず蔵の入り口を見はっています。昌一君と太一君と書生とは、そのへんを見まわる役目です。
邸内にはどの部屋にも、あかあかと電灯をつけ、蔵の前の廊下はもちろん、蔵の中にも明かるい電灯が引きこんであります。
手塚さんは、ときどき鍵で蔵の大戸をひらいて、中にはいり、金庫の中をあらためるのですが、夜光の時計はちゃんとその中にあります。さすがの魔人もこの厳重な蔵の中へは、はいることができないのでしょうか。それとも、紙きれに書いた約束を守って、十時になるのを待っているのでしょうか。
六時少し過ぎたころ、明智探偵が、捜査課の中村係長とふたりでやって来ました。小林少年の姿は見えません。明智は小林君をつれて行くといっていたのに、どうしていっしょにこなかったのでしょう。これには何かわけがあるのかもしれません。
手塚さんはふたりを蔵の前に案内し、別のイスを持ちだしてかけさせ、夕方からのできごとをくわしく報告しました。
「そんなことがあったものですから、たびたび先生の所へお電話したのですが、もうお出ましになったあとでした。」
「それは失礼しました。じつは中村君と打ちあわせて、さそいだして来たものですから、おそくなりました。ところで、品物はまだ蔵の中にあるのでしょうね。」
「それはもうたしかですよ。さっきからたびたび、しらべてみたのですが、すこしも異状はありません。」
「それから、この蔵には床下のぬけ穴などないのでしょうね。」
「それもたしかです。私もよくしらべましたし、警官がたも、きょう昼間、じゅうぶんおしらべになったのですから。」
「すると、人間以上の力を持ったやつでなくては、この蔵へはいることはできないわけですね。」
「そうです。しかし、相手は人間以上の力を持っているかもしれません。なにしろ、さっきみたいな不思議な消えかたをするばけものですからね。」
それから、お茶やお菓子が出て雑談に時をすごしましたが、これという変わったこともおこりません。しかし、時間は刻一刻と十時に近づいています。
九時を過ぎると、手塚さんはもう気が気ではないらしく、なんどとなく時計を出してながめ、立ったり腰かけたり、落ちついていられないようすです。
「明智先生、中村さん、私はどうもこれでは安心ができません。これから十時まで蔵の中へはいって、金庫の前にがんばっていることにします。蔵の入り口はごらんのように網戸になっていますから、外からよく見えます。この戸はただしめるだけにして、鍵をかけないでおいて、いざという時には、みなさんで中へ飛びこんでください。」
それまでにしなくてもと、一同がとめたのですが、手塚さんはどうしても不安心だからというので、とうとう蔵の中へはいることになりました。そして、蔵のまん中にすえてある二メートルほどの高さの大金庫のまわりをグルグルめぐりあるいているのです。
蔵の中には電灯がついているし、あらい網戸ですから、そとからよく見えます。はじめのあいだは蔵の中とそとで、何かと話しあっていましたが、やがて、それにもあきて、どちらもだまりこんでしまいました。
「十時五分前だ。」
中村係長が腕時計を見て、ソッと明智にささやきました。こんな厳重な見はりをしているのだから、だいじょうぶとは思うものの、やはり時間が近づくと心配です。蔵の前の一同はかたずをのむようにして、身動きもしないで、網戸の中を見つめています。
手塚さんは相かわらず、大金庫のまわりを歩きまわっています。そして、金庫のうしろに回って、ちょっと姿が見えなくなったと思うと、とつぜん、「ワーッ」というさけび声が一同の耳をつんざきました。すわとばかり立ちあがった人々の目に、網戸を通しておそろしい光景がうつりました。金庫のかげからヨロヨロとあらわれた手塚さん、そのうしろから、のしかかるようにして、せまってくる怪物。
アア、いつのまにはいったのか、そこには、青銅の魔人がいたのです。ギリギリ、ギリギリ、例の無気味な歯車の音。まっ黒な穴になった両眼、三日月型の黒い口、怪物はついに名探偵の前に姿をあらわしたのです。