かべをはうもの
それから、また数分間たっても、舞台には、なにごともおこりません。見物たちは、もうがまんができなくなりました。
まっさきに立ちあがったのは、小林少年です。小林君は、つかつかと舞台のきわまで、近づいていきました。そして、いきなり、「勇一くーん、勇ちゃーん。」と大きな声で、呼びかけてみました。
なんの答えもありません。
また、くりかえして呼びました。それにつれて、見物たちは、みな席をはなれて、舞台のそばへあつまってきました。そして、てんでに、なにか言いだしたものですから、にわかに、ガヤガヤとさわがしくなってきました。
小林君は、たまりかねて、舞台にかけあがり、奥のほうに向かって、「だれかいませんか。」と、どなりました。
すると、黒い幕のうしろから、白いつめえり服の助手がふたり、飛びだしてきました。
「先生がいなくなってしまったんです。ぼくたちは、いままで、いっしょうけんめいに、さがしてみたのですが。」
助手のひとりが、息をはずませて、言うのです。先生とは魔法博士のことにちがいありません。
「先生がいないんですって? じゃあ、勇一君もですか。」
「ええ、ふたりとも見えないのです。」
では、博士も勇一少年も、ほんとうにべつの世界へ飛びさってしまったのでしょうか。
「いまのはブラック・マジックでしょう。きみたちはまっくろな服を着て、舞台で、はたらいていたのでしょう。」
小林君は、ブラック・マジックという奇術の種を知っていたので、こう言って、なじるように助手たちにたずねたのです。
「そうです、ぼくたちは、この白服の上から黒ビロウドの服を着て、黒ずきんをかぶり、黒い手ぶくろをはめて、助手をつとめていたのです。そうすれば、電気の光線のぐあいで、見物席からは、何も見えないのです。ぼくたちが、いくら舞台を歩きまわっても、すこしも見えないのです。」
「それでいて、博士がいなくなるのを、知らなかったのですか。」
「ぼくたちは、しょっちゅう舞台にいたわけではありません。ちょっと、楽屋へはいったあいだに、先生も、子どもさんも、見えなくなってしまったんです。じつにふしぎです。」
こんな問答を聞いていても、ブラック・マジックというものを知らない見物たちには、なんのことだかわかりません。みんなが、けげんらしい顔をしているので、小林君はかんたんに、ブラック・マジックの種明かしをしました。
「みなさん、いまのは魔法でもなんでもない、ふつうの手品で、ブラック・マジックって言うんです。電灯をぜんぶ見物席のほうに向けて、舞台には、じかに光がささないようにしてあるので、こうして、しゃべっているぼくの姿でも、手や顔のほかは、ハッキリ見えないでしょう。ですから、博士はあんなまっ白な服を着ていたのです。また勇一君にも白い服を着せたのです。
ぼくの服でさえ、ハッキリ見えないくらいですから、まっ黒なビロウドの服を着て、頭や、手先も黒ビロウドでつつんでしまったら、見物席からは、すこしも見えません。このふたりの助手君は、そういうまっ黒な姿になって、舞台で、はたらいていたのです。これが手品なのですよ。
さっきの大トランプの奇術も、はじめから黒ビロウドをかぶせて、舞台においてあったのを、助手君が、その黒いきれを、だんだん、はがしていったのですよ。すると、さも空中から大トランプが、あらわれるように見えたのです。ハートの女王さまが動きだしたのも、助手君のひとりが、おけしょうをして、絵の女王さまとおなじ服を着、かんむりをかぶって、カードを切りぬいたところから、上半身を出して見せたのです。カードの裏がわを見せるには、すばやく、切りぬいた絵を、もとのとおりにはめこみ、自分は頭から黒ビロウドをかぶって、姿を消してしまうのです。
勇一君が宙に浮きあがったのは、黒ビロウドを着た助手君が、勇一君のダブダブした白い道化服のあいだに両手をかくして、そのからだを持ちあげていたのです。すると、いまひとりの助手君が、黒ビロウドのふくろのようなものを、勇一君の頭のほうからかぶせていって、だんだん足の先まで、かくしてしまったのです。そうすると、見物席からは、勇一君が消えてしまったように見えるのですよ。
魔法博士のからだが、服をぬぐにつれて、消えていったのは、あの白い服の下に黒ビロウドのシャツとズボンをはいていたのです。手にも黒い手ぶくろをはめ、その上からもう一つ、白い手ぶくろをはめていたのです。さいごに、顔まで見えなくなったのは、頭からスッポリと黒ビロウドのきれをかぶったのですよ。」
小林君は、さすがに名探偵の片腕と言われるほどあって、手品の種には、くわしいものです。話しおわって、ふたりの助手のほうをふりむいて、そのとおりでしょうとたしかめますと、助手たちは、びっくりした顔をして、そうだと、うなずいて見せました。
「勇一君を黒ビロウドでかくしてしまってから、どうしたのですか。舞台のゆかへおろしたのでしょうね。」
「そうです。この黒布をはったゆかへおきました。このへんですよ。」
ひとりの助手は、勇一君をおろした場所へ歩いていって、指で、さししめしました。むろん、そこには、何もありません。舞台にあがってしまえば、まぶしい電灯のうしろがわになるので、黒いものでも、よく見えます。広い舞台には、ふたりの助手のほかに、まったく人影がありません。
奇術の種がわかりますと、博士と、勇一少年がいなくなったのは、奇術ではなくて、ほかにわけがあることが、ハッキリしましたので、いよいよ、さわぎが大きくなりました。
見物のうちの、おとうさんやにいさんたちが、まず舞台へあがって来ました。そして、舞台の前の、電球をとりつけてあった板をはずし、それを反対のほうに向けて、舞台を明かるくしておいて、背景のうしろ、幕のかげ、舞台のゆか下と、ありとあらゆる、すみずみを、さがしまわりましたが、どこにも人影はありません。
舞台のうしろのドアをあけると、楽屋につかっていた、せまい部屋があり、そこも、くまなくさがしたうえ、つぎのドアをひらくと、パッと目をいる明かるさ。もう夕方でしたが、いままで暗いところにいたので、にぶい光でも、まぶしいほどです。
そこは廊下になっていて、一方は行きどまりのかべ。一方はべつの部屋につうじています。庭に面したガラス窓をしらべてみると、うちがわから、しまりができていて、そこから人の出たようすはありません。
小林君は、せんとうに立って、廊下の先のべつの部屋へ、はいって行きました。円形のせまい部屋で、小さな窓が一つしかなく、その窓もしめきったままで、別状はありません。まるい部屋のまん中に、ラセン階段があります。そこは、この洋館についている、夢のお城のような、円形の塔の一階だったのです。
もし、魔法博士が、勇一君をつれて逃げたとすれば、見物席のほうへは出られませんから、この塔にのぼるほかに、道はないのです。ほんとうに魔法の力で消えてしまうなんて、考えられないことですから、博士と勇一君は、この塔の上に、かくれているにちがいありません。なぜ、かくれたのか、すこしもわけがわからないけれども、そんなことを考えているひまはないのです。小林君は、グルグルうずまきになっているラセン階段を飛ぶように、かけあがっていきました。
二階の窓にも別状ありません。そのつぎの三階が頂上でした。だれもいません。しかし、そこの窓が、ひらいたままになっています。かけよって、しらべてみると、窓わくにつもったホコリが、ひどくみだれています。何者かが、その窓から外に出たらしいのです。
まさか三階の窓から、飛びおりることはできません。地上七メートルもあるのです。では、綱をつたっておりたのでしょうか。しかし、どこにも綱のはじは見えません。
小林君は窓から首をだして、のぞいて見ました。思ったとおり、足がかりなんかすこしもない、なめらかなレンガのかべです。ヘビかトカゲでなくては、このかべを、はいおりることはできないでしょう。
そう思って、見おろしたとき、小林君の目に、ギョッとするようなものが、うつりました。その直立したなめらかなかべの上を、一ぴきのまっ黒な怪物が、とほうもなく大きな、トカゲのようなやつが、ノロノロとはいおりていたのです。ちょうど二階の窓のへんを、頭を下にして、さかさまにはいおりていたのです。
それは、写真でも絵でも、一度も見たことがないような、まっ黒な動物でした。大きさは、ちょうど人間ほど、足は四本、ひふは、まるで黒ビロウドのようです。
オヤ、おかしいぞ。手が二本、足が二本、黒ビロウドのシャツとズボン、クツした、手ぶくろ。小林君は思わず、アッと声をたてました。
すると、怪物のほうでも、その声におどろいて、ピッタリはうのをやめ、グーッとかまくびをもたげるようにして、小林君のほうを見あげました。
それは、魔法博士の顔でした。ニヤリと笑った、あのぶきみな魔法博士の顔でした。