名探偵の危難
小林少年が、バッジを飛ばした日の午後三時ごろ、ひとりの少年が、明智探偵事務所をたずねて、奥に通されましたが、しばらくすると、その少年は、さもうれしそうにニコニコしながら、帰って行きました。小林君の手紙をとどけて、たくさんのお礼をもらったにちがいありません。
さて、その晩八時ごろのことです。探偵事務所の前に、一台の自動車がとまって、中から三人の警官があらわれました。ひとりは警部、あとのふたりは巡査です。
女中がとりつぎに出ますと、警部は、
「わたしは、警視庁の島田警部ですが、明智先生にこれをわたしてください。」と言って、一枚の名刺をさしだしました。
病室のベッドに寝ていた明智探偵が、女中の持って来た名刺を見ますと、それはこんいな中村係長の名刺で、「わたしはほかの事件で行けないから、かわりに島田警部をうかがわせます。しさいは島田君からお聞きください。」と書いてありました。
「寝たままで、失礼ですがと言って、ここへお通ししなさい。」
明智のことばに、女中は玄関にもどって、まもなく三人の警官を案内して来ました。
「はじめてお目にかかります。ご病気のところを、おさわがせして、すみません。わたしは島田ともうすものです。」
警部は、ていねいにあいさつをして、明智のベッドの前のイスに腰かけました。
ふたりの巡査も、明智におじぎをしましたが、女中が奥へはいって行くと、なぜかふたりは、そのあとについて、どこかべつの部屋へ、姿を消してしまいました。
「小林君はまだ帰らないそうですね。わたしのほうでも、じゅうぶん手配をしてあるのですが、まだなんの報告もありません。それについて、先生のお考えをうかがいたいのですが。」
島田警部は、大きなロイドメガネをかけ、みじかい口ひげをはやした、四十歳ぐらいの人物です。ものを言うたびに、メガネの玉がキラキラ光ります。
「世田谷の魔法博士の洋館はしらべてくださったのでしょうね。」
明智は、ベッドに横たわったまま、力のない声で言いました。
「むろん、しらべました。しかし、だれもいないのです。まったくの空家です。あいつはねじろをかえてしまったのに、ちがいありません。」
「やっぱりそうですか。で、どこへかくれたのか、すこしも手がかりがないのですね。」
「そうです。いまのところ、なんの手がかりもありません。魔法博士というやつは、じつにふしぎな怪物です。」
警部は、ため息をつかぬばかりに、言うのです。
読者諸君、この会話は、なんだかへんではありませんか。明智は、小林少年の手紙を受けとっているのに、そのことは何も言いません。では、さっきの少年は、例の手帳の紙を持って来たのではなかったのでしょうか。いや、そんなはずはありません。それには、何かわけがあるのです。きっと深いわけがあるのです。
そういえば、島田のほうもつまらないことを、いつまでもしゃべっていて、ここへ何をしに来たのだか、わけがわからないほどです。
そうしているうちに、やがて、さっき奥の間のほうに、姿を消したふたりの警官が、やっと、もどって来ました。そして、島田警部に、何かみょうなあいずのような目くばせをしました。
すると、警部のようすが、にわかに、かわりました。うつむきかげんにしていた姿が、シャンとして、メガネの中の両眼が、ギロリと光ったように見えました。
「明智先生、ご病気中をおきのどくですが、じつは、おむかえにあがったのです。ひとつ、ごそくろうねがいたいのですが。」
「えッ、ぼくに、どこへ行けというのですか。」
「世田谷の怪屋です。先生にぜひ見ていただきたいものがあるのです。」
「さっき、あなたは、世田谷の洋館は、まったくからっぽだと言ったじゃありませんか。そんなところへ、ぼくが行ってもしかたがないでしょう。」
「いや、どうしてもおつれします。そのために、わたしは、わざわざやって来たのですから。」
「ぼくは行かない。行く必要がない。」
「先生、あなたがなんとおっしゃってもだめですよ。こちらは三人です。あなたはひとりで、そのうえ病人です。かないっこありませんよ。それに、おくさんと女中さんは、さっきふたりの部下が、奥へ行って、声をたてることも、身うごきすることもできないようにしてきたのです。あなたは、まったくのひとりぼっちですよ。」
それを聞くと、明智はおどろいて、ベッドの上に起きあがりました。
「きみはだれだ。さっきの中村君の名刺は、にせものだな。」
「むろんですよ。あれがないと、きみが通してくれないだろうと思ってね。」
「ウーン、わかった。それじゃ、きさまは魔法博士だな。」
「ウフフフフフ、おさっしのとおり、魔法博士が、ご自身で、明智先生をおむかえに来たのさ。」
「で、ぼくが、いやだと言ったら?」
「こうするのさ!」
警部に化けた魔法博士は、いきなりベッドの上の明智に、飛びかかって来ました。そして片手で明智ののどをしめつけ、片手はズボンのポケットへ。
病気あがりの明智は、もうどうすることもできません。しめつけられたのどの苦しさに、ただもがくばかりです。
魔法博士がポケットから取りだしたのは、大きなハンカチをまるめたようなもの、それで明智の口と鼻をピッタリとおさえつけたのです。
しばらく、そのままおさえつけていると、もがいていた明智のからだが、死んだようにグッタリしてしまいました。
「ウフフフフフフ、名探偵も、もろいもんだな。さあ、おまえたち、こいつをシーツにくるんで、はこぶんだ。近所のものにさとられないように、手ばやくやるんだぞ。」
巡査に化けたふたりの部下は、ベッドのシーツで、グッタリした明智のからだをつつみ、なにか大きなにもつのように見せかけて、そのまま表の自動車の中へはこび入れます。魔法博士の島田警部も、そのあとについて表に出ると、入り口の戸をピッタリしめて、自動車の運転席に飛び乗りました。
そして車はしずかにすべりだし、やがて町かどをまがると、闇の中を、いずこともなく、走りさってしまいました。
名探偵明智小五郎と怪人魔法博士のたたかいは、こうして、あっけなくおわりました。小林少年のせっかくの苦心も、水のあわとなったのです。
しかし、いくら病後の明智でも、これでは、あまりに、ふがいないではありませんか。何か深いたくらみがあって、わざと敵のなすがままに、まかせたのではないでしょうか。