名探偵の幽霊
場面は一てんして、ここは魔法博士の部屋です。
小林少年のとじこめられた部屋と同じような、りっぱな洋室。まん中に大きなデスクがおかれ、そこのイスに、例のコウモリのようなマントを着た魔法博士が、腰かけています。
「ワハハハ、どうだね、小林君。」
博士は、デスクの上の小さなマイクロフォンに向かって、話しかけています。それが、小林少年の部屋の天井にとりつけられた、ラウド・スピーカーに、つながっているのです。
博士の部屋にも、四方のかべに、大小さまざまの鏡が、はめこんであります。そして、博士の右手にあたる長いかべに、三メートルほどへだてて、ならんでいる、二つの鏡がすきとおって、それぞれ、向こうがわの明かるい部屋が見えています。博士の部屋の電灯は、ひじょうにうすぐらいのです。
その二つの鏡のうちの、右のほうの鏡の中には、小林少年の部屋の一部が見えています。小林少年は、いきなり空中から声がひびいてきたので、おどろいて、あたりを見まわしているところです。
魔法博士は、それをながめながら、デスクの上のマイクロフォンに向かって、話しつづけるのでした。
「どうだね、小林君、魔法博士のおてなみのほどが、わかったかい。いまきみが見たとおり、わしは、三人のきみの友だちと、それから、きみのそんけいする明智大先生まで、とりこにしたのだ、ワハハハ……、きみはおどろいてしまって、とほうにくれているね。だが、おどろくのは、まだ早いよ。これから、いよいよ、わしの大魔術がはじまるのだ。」
博士はそこで、ことばをきって、マイクロフォンのスイッチを、カチッときりかえました。そして、こんどは、左のほうの鏡の人物に話しかけるのです。
「ワハハハ……、明智先生、お目ざめのようですね。おどろきましたか。ここをどこだと思いますね。ここは、あなたがたが魔法博士の怪屋とよんでいる場所ですよ。」
左の鏡の中では、明智探偵が、ベッドの上に半身を起こして部屋の中を、ふしぎそうに見まわしています。それが手にとるように見えるのです。
「明智先生、あんたのほうからは見えないだろうが、わしは魔法博士です。とうとう、あんたを、かどわかすことができて、じつにゆかいですよ。なぜ、かどわかしたかと、おっしゃるのですか。それはいまに、説明しますよ。わたしはあんたに、ゆっくり、わしの身のうえ話を聞いてもらいたいのです。
そのまえに、言っておきますがね、きみはもう一生涯、この家から出ることはできない。わしのとりこです。わしのけらいです。いいですか。きみばかりじゃない。きみの助手の小林も、べつの部屋にとじこめてある。小林の友だちの子どもたちもかんきんしてある。もうきみは、どうすることもできないのです。わかりましたか。ワハハハハ……。」
魔法博士は、とくいの絶頂です。イスのうえにそりかえって、ゆかいでたまらぬというように、笑いだすのでした。
ところが、博士の笑いがやっと、とまったとき、じつにふしぎなことがおこりました。どこからか、こだまのように、べつの笑い声が、かすかにひびいて来たのです。
「ハハハハハハ……。」
魔法博士はギョッとしたように、いずまいを、なおしました。鏡の向こうの明智は、すこしも笑っていません。たとえ笑ったとしても、あついガラスにへだてられているので、ここまで聞こえるはずがないのです。
そのふしぎな笑い声は、きみ悪く、いつまでもつづいていました。
「ハハハハハハ……。」
博士は、思わず立ちあがって、キョロキョロあたりを見まわしながら、
「だれだッ。」とどなりました。
「ぼくだよ。きみがとりこにしたと思っている明智小五郎だよ。ぼくはけっして、きみのとりこになんか、なっていないんだよ。」
ふしぎな声が、あざけるように、答えました。しかし、鏡の中の明智は、ベッドの上に半身を起こして、いぶかしげに、あたりを見ているばかりで、すこしも、ものを言ったようすもありません。だいいち、声の聞こえて来る方角が、まったくちがうのです。
明智は腹話術を使って、口を動かさないで、ものを言っているのでしょうか。それにしても、ガラスを通して、声が聞こえるというのは、へんです。魔法博士は、向こうの部屋で、どんな大きな声を出しても、こちらまで聞こえないことを、よく知っていたのです。
さすがの魔法博士も、なんだか、うすきみ悪くなってきました。
「もう一度、言ってみろ、きさま、どこにいるんだ。」
「どこでもない。きみの目の前にいるじゃないか。ハハハハ……、魔術にかけては、ぼくのほうが、すこしうわてのようだね。」
鏡の中の明智は、そのことばとは、まるでちがった顔をしています。どうしても明智がものを言っているとは考えられません。それでは、だれかべつの人間が、いたずらをしているのでしょうか。魔法博士の部下のものが、そんなことをするはずはないのですから、すると、何者かが、この建物にしのびこんでいるのかもしれません。
魔法博士はいよいよ、きみが悪くなってきました。
「きさま、とりこになんか、なっていないと言ったな。それじゃあ、ここへ出て来てみろ。いくら名探偵でも、そのげんじゅうな部屋をぬけだすことはできまい。」
「ウフフフ……、げんじゅうな部屋だって? 名探偵の前には、ドアなんか、ないも同然だということを知らないのかい。ここだよ、ここだよ。」
魔法博士は、部屋の入り口のドアを、きっと見つめました。ふしぎな声はそのドアのへんから、聞こえてくるように、感じられたからです。
見つめていますと、正面のかんのんびらきの大きなドアが、スーッと左右にひらき、その向こうの、うすぐらい廊下に、スックと立っている人の姿が、見えました。
黒い洋服を着た、背の高い、頭の毛のモジャモジャになった人物です。そのふしぎな人は、ゆうぜんと部屋の中へ、はいって来ました。ああ、これはどうしたというのでしょう。その人は、まぎれもない、名探偵明智小五郎だったではありませんか。
魔法博士はギョッとして、もう一度、鏡の中を見ました。鏡の向こうのベッドの上には、たしかに明智の姿が見えます。しかし、おなじ明智が、もうひとり、正面のドアからはいって来たのです。名探偵のからだが二つになったのでしょうか。それとも、どちらかが、明智の幽霊なのでしょうか。
博士が、あっけにとられたように、明智の姿を見つめていますと、さらに、おどろくべきものが、目にはいってきました。明智の幽霊のうしろに、一ぴきの猛虎がノッソリと、つきしたがっていたのです。
明智はその虎の首に手をかけて、ゆっくりとした足どりで、博士の大デスクのほうへ近づいて来ます。博士には、それが、とほうもない、まぼろしのように感じられました。つかもうとすれば、スーッと消えてしまう、幻影ではないかと、思われました。
すべてが、夢のようにふしぎなことばかりです。鏡の中と、いま目の前にいる人物と、明智がふたりになったばかりか、おそろしい人くい虎が、見知らぬ明智に飛びかかろうともせず、まるで、けらいのように、つきしたがっているではありませんか。博士がそれを、まぼろしか、幽霊と考えたのも、むりではありません。
「ハハハ……、ぼくの魔術も、まんざらではないだろう。きみがあれほど、あいたがっていた明智だよ。さあ、きみの話を聞こうじゃないか。」
「うそを言え、きさま、何者だッ、ほんとうの明智はあすこにいる。あれを見ろ。」
魔法博士は鏡を指さして、どなりました。
「知っているよ。あすこにいるのも明智、ここにいるのも明智、明智がふたりになったのさ。ぼくのあみだした魔術の一つで、人間分身術というのだ。」
「ばかな、そんなことが、できてたまるものか。」
「ハハハ……、だめだよ。そのボタンをおしたって、だれも来やしない。きみの部下は、ぼくがひとりのこらず、しばりあげてしまったのだ。」
「うそだ。その手にのるものか。」
魔法博士は、デスクの裏のベルを、おしつづけましたが、だれもやって来るようすがありません。
「ちくしょう。きさま、近づくと、これだぞ。」
博士は、どこからか小型のピストルをだして身がまえをしました。
「ハハハハ……、だめ、だめ、きみは、それをうつ勇気がない。たとえ、うっても、ぼくにはあたらないよ。魔法博士ともあろうものが、ピストルを持ちだすなんて、みっともないじゃないか。それよりも、きみの話を聞こう。きみはさっき、ぼくに身のうえ話を聞かせると言っていたね。」
明智はニコニコ笑いながら、大デスクに近づき、魔法博士の正面のイスに、ゆったりと腰かけました。虎も、まるで、かいイヌのように、おとなしくそのイスの足のところに、うずくまっています。
巨人と怪人は、ついに、デスク一つをへだてて、相対したのです。名探偵勝つか、魔法博士勝つか? 知恵と魔術の息づまる戦いの幕がいまや切っておとされようとしているのです。
それにしても、明智は、どうしてふたりになることができたのでしょう。また、あれほどながいあいだ病気だった明智が、いま見れば、すこしも病人らしくないのは、どうしたわけでしょう。それから、人くい虎が、かいイヌのように、おとなしくなったのも、じつにふしぎと言わねばなりません。