明智夫人の危難
自動車が東京にはいると、怪人は、そこを右へ、そこを左へと、さしずして、車をすすめ、さいごにとまったのは、千代田区の明智探偵事務所から、半町ほどへだたった町角でした。
アア、なんという大胆不敵、明智探偵に化けた二十面相は、探偵の不在を見こして、当の探偵事務所へのりこむつもりらしいのです。それにしても、明智のるす宅へのりこんで、いったい何をしようというのでしょう。
「三、四十分かかるかもしれないが、ここで待っててくれたまえ。これだけあずけておく。」
二十面相はそう言って、何枚かの千円札を運転手にわたし、自分でドアをひらいて、探偵事務所まで、歩いて行きました。
玄関のドアの横のベルをおして、しばらく待っていますと、ねむそうな顔をした女中が、目をこすりながら、ドアをひらきました。
「アラ、先生ですか。」
「ウン、ゆうべはてつやだった。文代はまだ寝ているだろうね。」
「エエ、おくさまは、まだおやすみです。お起こししましょうか。」
「ウン、起こしてくれ。そして、あつい紅茶を二ついれて、ぼくの部屋へ持ってくるんだ。」
「ハイ。」
女中はすこしもうたがわないで、にせ探偵を中にいれると、いそいで明智夫人の文代さんを、起こしに行きました。
にせ探偵は、明智のうちの間どりを、ちゃんと知っているらしく、そのまま、二階の明智の居間へ、階段をのぼって行きました。そこは、一方のすみにベッドがあり、安楽イスがいくつもおいてある、広い部屋でした。
明智探偵になりすました二十面相は、まるで自分のうちへ帰ったように、ゆったりと安楽イスに腰をおろし、テーブルの上にあったシガレット入れから、一本とって、そこのライターで火をつけました。
そうして、しばらく待っていますと、青いスカートに、はでな黄色のセーターを着た美しい文代さんが、ニコニコしながら、はいってきました。
「お帰りなさい。おつかれでしょう。心配してましたわ。二十面相、また逃げましたの?」
「ウン、例によって、てごわいあいてだよ。それでね、ぼくたちは、いそいで、この事務所を、からっぽにしなければならないんだ。きみとぼくと、一日だけ、ちょっとべつの場所へ、避難するんだ。むろん、これは、あいつをつかまえる作戦なんだよ。」
「マア、どこへ行きますの?」
「たいして遠くじゃない。自動車も待たせてある。」
そこへ、女中が紅茶をはこんできました。にせの明智は、わざわざ戸口まで行って、そのぼんを受けとり、女中をたちさらせると、パタンとドアをしめましたが、そこから、もとのイスへ帰るあいだに、文代さんに背をむけて、てばやくポケットから、小さなビンを取りだし、その中の白い粉を、紅茶茶碗の一つに入れて、サジでかきまわしました。まるで手品師のような、早わざです。
そして、なにくわぬ顔で、もとのイスにもどると、紅茶のぼんをテーブルにおき、
「大いそぎだが、お茶をのむひまぐらいはある。きみもおのみ。」
そう言って、粉を入れたほうの紅茶を文代さんの手もとにおくのでした。ふたりは、その紅茶を、ゆっくり、のみおわりました。
「オヤ、どうしたんだい。へんな顔をして。」
「オオ、にがい。にがい紅茶ね。どうしたのかしら。」
「気のせいだよ。サア、したくだ、外出のしたくだよ。」
しかし、文代さんは、立とうともしないで、じっと、にせ明智の顔を見つめています。
「オイ、どうしてぼくの顔を、そんなに見つめるんだ。なにかへんなところでもあるのかい。」
「へんだわ。あなたの顔、へんよ。」
文代さんの目は、いたいほど、にせ明智の顔に、くいいっています。
「ハハハハハハ、何を言っているんだ。きみはまだ、寝ぼけているんだろう。」
「いいえ、そうじゃありません。あなた、明智小五郎じゃないわね。だれなの。あなた、いったい、だれなの?」
文代さんは『吸血鬼』という事件で、えらい手がらをたてた美しい婦人探偵です。その事件のあとで、明智探偵と結婚したのです。ですから、変装を見やぶる、するどい目を持っています。二十面相の変装は、だれが見てもわからないほど、たくみなのですが、明智夫人の目を、ごまかすことはできなかったのです。
「ワハハハハハハハハ。」
怪人は、さもおかしそうに、笑いだしました。文代さんの顔色を見て、もうごまかしてもだめだと、さとったからです。
「見やぶられたね。きみのよく知っている男さ。怪人二十面相、世間ではおれのことを、そう呼んでいる。ハハハハハハハ、明智はあるところへ、かんきんしてある。もう二度ときみにも、あえないだろうね。」
文代さんはヨロヨロと立ちあがりました。そして、戸口のほうへ行こうとしたのですが、どうしたのか、歩く力もなく、べつのイスにたおれてしまいました。
「おくさん、もうだめだ。逃げようとしても、からだがいうことをきかない。くすりのせいだよ。いまの紅茶に麻酔薬を入れたのさ、マア、そこにじっとしておいで。ぼくが自動車まで、はこんであげるからね。」
二十面相はにくにくしげに言うと、ウーンと両手をあげて、大きなあくびをしました。
「さて、出発するとなると、着がえを一、二枚持っていかなけりゃなるまい。洋服だんすは、ここだったね。」
部屋の一方に、かんのんびらきの押入れがあって、その中が洋服かけになっているのです。二十面相はそういうことまで、ちゃんと知っていました。
かれは、その押入れの前に行って、かんのんびらきに両手をかけ、いきなり、サッと、左右にひらきました。そして、ひらいたかと思うと、さすがの悪人も、アッとさけんだまま、棒立ちになってしまったのです。
そこには、何があったのでしょう。
ごらんなさい。押入れの中の洋服は、みなかぎからはずされて、ゆかに落ちています。そして、押入れの奥のかべが、すっかりあらわれているのですが、そのかべが、一間四方もある、大きな一枚の鏡になっていて、そこに二十面相の全身がうつっていたではありませんか。いや、二十面相ではなくて、明智探偵の姿が、うつっていたのです。
かれはアッと言って、あとじさりをしました。ところが、どうでしょう、鏡の中の影はあとじさりをしないのです。ぎゃくに、こちらへ近づいてくるのです。
二十面相は、なんだかおそろしい夢を見ているような気がしました。それとも、自分は気でもちがったのではないかと、うたがいました。
ためしに、こんどは、鏡のほうへ近づいてみました。そうすれば、自分の影が、向こうへあとじさりするかもしれないと思ったのです。しかし、こんどは、影のほうはじっとしています。こちらが動いても、向こうは動かないのです。
手をあげてみました。向こうは手をあげません。笑ってみました。向こうはムッツリしています。
「きさまは、だれだッ。」
ついにがまんがしきれなくなって、どなりました。すると、鏡の中の人物は、はじめて口を動かしました。笑ったのです。鏡の影が声をだして笑ったのです。
「アハハハハハハハ、だれだとは、こっちで言うことだよ。ぼくとおなじ顔をして、ぼくとおなじ服を着て、そして、ぼくのうちへ、むだんではいって来たやつはだれだッ。」
鏡ではなかったのです。そこには、ほんものの明智小五郎が立っていたのです。名探偵が横浜の怪屋で、こんどはぼくが大魔術をえんじてみせると言ったのは、このことだったのです。押入れの中に鏡があったわけではありません。二十面相は、自分とそっくりの人が、押入れの中に立っていたので、鏡とまちがえてしまったのです。
ほんとうの明智は、押入れの中から、つかつかと出てきました。明智がふたりになったのです。頭から足の先まで、すんぶんちがわない、ふたりの明智小五郎が、立ちはだかって、にらみあったのです。
ほんとうの明智が、右手をあげて、にせもののうしろを、指さしました。にせものが、おどろいて、ふりむくと、そこには、麻酔薬で気をうしなったはずの文代さんが、イスにかけて、ニコニコ笑っていました。
「文代は婦人探偵なんだ。麻酔薬をのまされるようなボンクラじゃないよ。あの紅茶は、のむように見せて、すっかりハンカチにすわせてしまったんだ。文代のスカートのポケットには、グチャグチャになったハンカチが、はいっているはずだよ。」
「それじゃあ、この女は、おれが明智でないことを、はじめから、知っていたのか。」
「そうさ。ぼくの自動車は、京浜国道で、きみの自動車をぬいて、一足お先に、ここへついたのだからね。いまにきみがやって来るだろうと、うちじゅうで待ちかまえていたのさ。きみがここへ来ることは、ぼくにはちゃんとわかっていたのだよ。」
「ちくしょう。」
二十面相はまっさおになって、唇をかみました。完全な敗北です。こんなひどい負け方は、はじめてです。かれは、血ばしった目で、キョロキョロとあたりを、見まわしました。
「かぶとをぬいだかね。」
明智がニコニコして言いました。
「ぬぐもんかッ。」
二十面相はまだやせがまんを、言っています。かみしめた下唇から、血がにじみだして、むねんの形相は、おそろしいほどです。
「それじゃあ、どうするんだ。」
二十面相はクルッと窓のほうを向きました。
「こうするんだッ。」
さけんだかと思うと、かれはサッと窓にかけより、ガチャンとガラス戸をやぶって、弾丸のように、そこから飛びだしたのです。二階から地上へ飛びおりたのです。
「アラ、あなた!」
文代さんがびっくりしてさけびました。
「なあに、心配しないでもいい。ちゃんと、手はずができているんだ。やつはもう、ふくろのネズミだよ。」
名探偵はすこしもさわがず、文代さんに何事かささやいておいて、そのまま部屋を出て行きました。