劇場のとり物
そのとき、世界劇場の見物席は、一階も二階も三階も、われかえるような満員でした。あれほど、世間をさわがせた「透明怪人」の芝居ですから、めずらしさにかられた人々が、われもわれもと、おしかけて、毎日、切符売場には長い行列がつづくのです。
舞台では「透明怪人」劇が、最高潮にたっしていました。場面は、れいの大防空ごうのなかの、二十面相のかくれがです。背景には、いちめん岩窟の道具だて、そのまんなかに、一つの部屋があり、ふしぎなかたちの機械や、化学実験の道具などが、ところせまく、ならんでいます。
芝居のすじは、じっさいの事件とは、すこしちがって、その部屋へ、明智探偵に化けた二十面相があらわれ、この事件の捜査主任の中村係長が、その正体を見やぶるということになっています。
小林少年を、うす暗い廊下にのこして、舞台にいそいだ四十面相は、いましも、実験室の入り口から、ヌーッとすがたをあらわしました。いうまでもなく、明智小五郎のふんそうです。しかし、見物はそれが、あのおそろしい四十面相だなどとは、すこしも知りません。俳優の村上時雄だと思いこんでいます。有名なモジャモジャ頭のカツラに、あかるい空色の背広を着た明智があらわれると、見物席ぜんたいにわれるような、はくしゅがおこりました。
しばらくすると、舞台の実験室の、べつの入り口から、背広すがたの中村捜査係長が、はいってきました。むろん、これも俳優がふんした中村係長です。にせ明智は、それを見ると、ふいをつかれて、ハッとしたように身がまえをします。中村係長は、ツカツカと、そのまえに近づき、右手をあげて、あいての顔を、まっこうから指さしながら、いきなり、どなりつけるのでした。
「きさま、よくも、化けたな。」
「なに、化けたとは?」
にせ明智は、わざと、いぶかしそうに、聞きかえします。
「きさまは、明智探偵ではない、透明怪人の首領だろう。警察では、もうすっかりわかっているのだ。こんどこそ、逃がさないぞ。」
中村係長は、さけびながら、部屋の入り口にむかって、あいずをします。すると、そこから、五人の制服警官が、とびだしてきて、サッと、にせ明智のまわりをとりかこみました。それを見ると、にせ明智は、さもおかしそうに、大きな声で笑いだしました。
「ワハハハ……、きみたちの人数はそれっきりか。たった五人では、ちっとものたりないね。おれは、けっして、つかまらないよ。魔術師には、きみたちの夢にもしらない、おくの手があるのだ。」
舞台のやりとりが、そこまですすんだとき、とつぜん、見物席のうしろのほうに、ふしぎな、ざわめきが、おこりました。満場の見物の顔が、なにごとかと、いっせいに、そのほうをふりむきました。
うしろには、そとの廊下から見物席への入り口が、六ヵ所にひらいています。そのぜんぶの入り口から、ピストルで武装した警官が、三、四人ずつ、はいってくるのがみえました。いかめしい顔つきで、見物席のイスのあいだを、グングンと舞台のほうへ、すすんできます。じつに、ものものしい光景です。
この思いもよらぬできごとに、見物席は、シーンと、しずまりかえってしまいましたが、見物のうちには、これも、芝居のすじではないかと思った人もあるようです。なにしろ、きばつな「透明怪人」劇のことですから、見物をアッと言わせるために、こんな芝居を、しくまないとも、かぎらぬからです。
しかし、よく見ると、いま、はいってきた二十数人の警官は、どうも俳優らしくありません。舞台の、芝居の警官とくらべると、まるで、感じがちがうのです。
すると、そのとき、またしても、アッというようなことが、おこりました。こんどは舞台のほうです。舞台の両がわにある俳優の出入り口から、それぞれ五、六人の武装警官があらわれ、実験室のまんなかに立っている、にせ明智のほうへ、ジリジリと、せまっていくのです。
ぜんたいで三十数人にすぎませんが、よくめだつ警官服ですから、まるで、舞台も見物席も、武装警官で、いっぱいになったように感じられました。
さっき、舞台のにせ明智が言ったように、芝居のほうの警官は、中村係長と五人の巡査だけです。そのほかの三十数人は、芝居とかんけいのない、ほんものの警官です。いまは、見物たちにも、それがハッキリとわかりました。
いったい、まあ、これはどうしたというのでしょう。見物席は、にわかに、さわがしくなりました。われさきにと立ちあがって、ことのしだいを見きわめようとします。気のよわい女の人などは、席を立って、逃げだすという、さわぎです。
だれよりも早く、この警官隊に気づいたのは、舞台のまんなかにいる四十面相のにせ明智でした。かれは、見物席のうしろからと、舞台の両がわから、あらわれた三十余人の、ほんものの警官をにらみまわしながら、またしても、人もなげに、カラカラと笑いだすのでした。
「ワハハハ……五人ぐらいでは、ものたりないと言ったら、たちまち数倍の警官隊があらわれたね。これなら、敵にとって、ふそくはないぞ。いよいよ魔術師のうでまえを、お目にかけるときがきたようだな。諸君、どうか、お見おとしのないように。」
四十面相のにせ明智は、そんな、おどけを言いながら、見物席にむかって、ものものしくおじぎをしてみせるのでした。