塔上の怪獣
その下へ、近よって、よく見ると、三十センチおきぐらいに大きなむすび玉のある、ほそい黒いひもが、天井からさがっているのです。全身まっ黒な怪物は、そのひもをつたって、足の指をむすび玉にかけて、スルスルと、のぼっていくのです。
「とまれッ。とまらぬと、ピストルをうつぞッ。」
中村係長が、天井にむかって、どなりました。しかし、黒い怪物は、すこしも、ひるまないで、ますます、[#「ますます、」は底本では「ますます。」]速度をはやめて、のぼっていきます。のぼりながら、からだを左右にふるものですから、黒いひもが、ふりこのようにゆれはじめました。むろん、ピストルのねらいを、はずすためです。
「ぶっぱなせッ。」
中村係長のするどい、さけび声におうじて、一発、二発、三発、ピストルが火をふきました。しかし、警官のピストルは、あいてを殺すためではなく、ただ、動けなくするのが、目的ですから、ひじょうに、ねらいがむずかしいうえに、まとは、ブランブランと、はげしくゆれているのです。なかなかあたるものではありません。
黒い怪物は、ついに、天井の近くにひらいている、小さな窓にたどりつきました。そして、窓わくにまたがると、黒いひもを、スルスルと、てばやく、たぐりあげて、そのまま窓のそとへ、すがたを消してしまいました。
むすび玉のある黒いひもは、四十面相の七つ道具の一つで、じょうぶな絹糸をよりあわせて、つくったものです。のばせば、何十メートルの長さになり、まるめてしまえば、ポケットに、はいるという、べんりな、なわばしごです。
その絹糸のなわばしごは、世界劇場の屋根のいっぽうにそびえる、円形の塔の頂上に、むすびつけてありました。そこから、窓をくぐって、舞台うらにさがっていたのです。四十面相が、いざというときのために、まえもって、用意したのです。
「屋根へ逃げたぞ。みんな、そとに、まわれッ。」
中村係長のさしずで、数人の警官を、舞台うらにのこして、みんな劇場のそとにかけだしました。
そとは、もう夕がたでした。世界劇場の建物にも、そのへんのビルディングにも、もう電灯がつき、となりの大新聞社の電光ニュースは、夕やみのなかに、うつくしく動いていました。
劇場のまわりは、おそろしい人だかりです。怪人四十面相が、屋根へ逃げたということは、またたくまに知れわたり、人々の顔はいっせいに、空をむいています。
ふつうのビルディングでいえば、六階ほどの高さの、劇場の屋根のいっぽうに、西洋のむかしのお城のような、まるい塔がそびえているのです。その塔の上は、たいらになって、そのまわりに、パリのノートルダム寺院の屋上の、あの有名な彫刻をまねた、コンクリートの怪獣が、はるかに地上を見おろしてならんでいます。うすぐらくなった空に、それらの怪獣の、異様なすがたが、黒くクッキリと、うきあがっているのです。
そのとき、地上の群集の中から「ワーッ。」「ワーッ。」というかんせいがあがりました。怪獣と怪獣とのあいだを、なにか黒いものが、チョロチョロと動くのが見えたからです。あまり高いのと、夕やみのために、ハッキリ見さだめることはできませんが、たしかに怪獣とはべつのかたちのものが、動いたようです。まさか、コンクリートの怪獣に、たましいがはいって、動きだしたのではありますまい。
中村係長のさしずで、数人の警官が、塔の中をかけのぼり、いちばん上の部屋までたどりつきました。しかし、塔の屋上へ出る口は、四十面相が、上からふさいでしまったので、どうすることもできません。警官たちは、窓から身をのりだして、屋上の怪人にむかって、なにか、さけんでいるばかりです。その窓から半身をのりだした警官のすがたが、地上からも、かすかに見えています。地上の群集は、こく一こくと、その数をまし、劇場の前を通っている電車も自動車も、いまは立ちおうじょうのありさまです。
しばらくすると、遠くのほうから、サイレンの音が、聞こえはじめ、ひじょうな早さで、それが、近づいてきました。警官隊が、塔の下の群集を、せいりしはじめました。群集は車の下じきになることをおそれて逃げまどい、波がひくように、たちまち、ひろい道がひらけました。けたたましいサイレンの音をたてて、そこへ、のりこんできたのは、二台の消防自動車でした。中村係長がきてんをきかせて、近くの消防署に、おうえんをもとめたのです。
赤い自動車の上から、はげしいエンジンのひびきとともに一本のはしごが、グーッと空にのびています。同時に、いま一台の自動車から、まぶしいほどのまっ白なものが、塔の上をめがけて、矢のように、とびついていきました。探照灯のひかりです。
ごらんなさい。探照灯にてらしだされた塔上には、けだもののからだに、鳥のはねがはえ、人間の顔をもつ、ノートルダムの怪獣が、おそろしい形相で、下界の群集を見おろしています。その怪獣のせなかに手をかけて、スックと立っている、ひとりのまっ黒な人間。「アッ、あすこにいる。」「あれが四十面相だッ。」群集のなかからわきあがる、おどろきの声。怪獣と肩をくんで、地上の大群集をあざわらっているのは、まぎれもない怪人四十面相の、すさまじいすがたでした。
それにしても、四十面相は、これから、どうするつもりなのでしょう。ぜったいに、逃げみちがないではありませんか。脱獄したと思ったら、もう、つかまってしまう運命なのでしょうか。