深夜の妖虫
そんなことがあって、数日ののち、真夜中の銀座どおりに、じつに前代未聞の、おそろしい事件がおこりました。
中学二年の山村志郎少年は、銀座うらの小さいお菓子屋さんの二階に、部屋をかりて、おかあさんとふたりきりで住んでいました。おかあさんは裁縫がじょうずなので、あるデパートの仕立部につとめているのです。
ある晩のこと、真夜中に、山村君のおかあさんが、きゅうにおなかがいたくなり、ひどく苦しむので、少年はお医者さまへ電話をかけるために、近くの公衆電話へかけつけました。
さいわい、お医者さまは、すぐ来てくださるというので、ひと安心して公衆電話を出ようとすると、ガラス戸の外に、なにか黒い木の枝のようなものが、動いているのに気づきました。
へんだなと思って、ドアをひらくのをためらっていると、木の枝のようなものが、ガラスとすれすれのところに、近づいてきました。よく見ると、それは、ピカピカと黒びかりに光っている、棒のようなもので、その棒のさきが、ほそくなって、そのさきに、ネズミのしっぽぐらいの太さの、小枝のようなものが、何本も、クシャクシャと、はえているのです。そして、そのネズミのしっぽみたいなものが、てんでに、まるで、ムカデの足のように、動いているのです。
山村君は、それを見ると、ゾーッと、こわくなって、立ちすくんでしまいました。すると、黒い棒のようなものが、だんだんのびてきて、それがかぎのように、まがっていることが、わかりました。棒は根もとのほうほど、太くなっているのですが、それが、すっかり、あらわれると、つぎには、なにか、まっ黒な、びっくりするほど大きなものが、ガラスの向こうに、姿をあらわし、二つのギョロギョロした目で、山村君をにらみつけました。
いや、そればかりではありません。その黒い大きなやつは、おそろしい、まっ黒なヤリのようなツノを持っているのです。太さは、根もとのほうで、さしわたし五センチもあるかとおもわれ、長さは、五十センチもありそうです。その黒びかりのした、とんがったツノで、いまにも、公衆電話のガラスをつきやぶろうとしているのです。
「ワワワワ……。」
山村少年は、なんともいえぬさけび声をたてました。そして、そのまま気をうしなって公衆電話のコンクリートの床に、クナクナと、くずおれてしまいました。
しばらくして、気がつくと、もうガラスの外には、なにもいません。それじゃ、いまのは夢だったのかしらと、おそるおそる、ガラス戸をひらいて、外をのぞいてみました。なにもいません。
そっと、外へ出てみました。そこにあるのは、シーンと、ねしずまった町ばかりです。山村君は、うちのほうへ、かけだしました。そして、まがりかどまで来て、ヒョイと銀座のおもてどおりのほうを見ると、ずっと向こうのかどに、へんてこなものが、うごめいているではありませんか。
山村君は、ギョッと立ちすくんだまま、もう身動きもできなくなりました。
やっぱり怪物がいたのです。真夜中で、ネオンは消えているけれども、街灯があります。その光にてらされて、巨大な怪物の背中が、まるでウルシのように、黒びかりに光っているのです。
それは、カブトムシを万倍も大きくしたような、見るもおそろしいばけものでした。カブトムシのキングコングです。頭のさきから、ニューッと、太いツノのはえた、一角獣のような怪物です。
そのとき、山村少年のうしろから、コツコツと、くつの音がしました。またしても、ギョッとして、ふりむきますと、それは、ばけものではなくて、パトロールのおまわりさんでした。おまわりさんは、まだ怪物に気づいていないのです。
山村君は、それを見ると、ほっと安心して、いきなり「ワーッ。」と、泣き声をたてながら、おまわりさんの腰に、すがりついていきました。ふいをうたれて、おまわりさんもびっくりしましたが、山村君が、しっかり、すがりつきながら、かた手で指さすほうを見ると、こんどは、おまわりさんが、石のように立ちすくんでしまいました。
しかし、このおまわりさんは、勇気のある人でしたから、にげだすようなことは、しませんでした。山村君に、おうちへ帰るように、ささやいておいて、じぶんはひとりで怪物のほうへ、用心しながら、ジリジリと近づいていきました。
山村少年は、そんなさいにも、おかあさんの病気のことはわすれなかったので、そのまま、よろめきながら、おうちへ帰りましたが、下のお菓子屋さんの人に、怪物のことをはなしたので、たちまち、さわぎが大きくなりました。深夜の銀座に、カブトムシの怪物があらわれたことが、となりから、となりへとつたわり、くっきょうな男の人たちが、手に手に、こん棒などを持って、家の外へとびだしてきたのです。
その人たちが、山村少年におしえられた場所へかけつけたとき、夜のしずけさをやぶって、パーンと、ピストルの音が、ひびきわたりました。おまわりさんが、怪物めがけて発砲したのです。
そのとき、怪物はもう、銀座の大どおりへ、はいだしていました。それをおっかけるおまわりさん。さわぎをききつけて、近くの交番から、とびだしてきたおまわりさんがふたり、そのあとから走っています。それから、ずっとおくれて、こん棒などを持った町の男の人たちが、こわごわ、つづいているのです。その人数もいまでは、十五―六人に、ふえていました。
真夜中の二時ごろですから、銀座には、まったく人どおりがありません。電車の通らないレールばかりが、銀色にひかって、どこまでもつづいています。あの人どおりのおおい銀座が、夜中には、こんなにもさびしくなるのかと、おどろくほどです。昼間、にぎやかなだけに、夜のさびしさは、こわいようでした。
そのひとけのない大どおりの、銀色の電車のレールの上を、クマのように大きなカブトムシのばけものが、たくさんの足を、いそがしく動かして、おそろしい早さで、走っているのです。
二度、三度、ピストルが、なりわたりました。しかし、怪物は、鉄でできているのでしょうか、たまがあたっても、カーンとはねかえるばかりです。
そのとき、深夜の客をのせた一台の自動車が、むこうから走ってきました。
その自動車の運転手は、人どおりのない町を、気をゆるして運転していたのですが、ふと気がつくとヘッドライトの光のなかに、おそろしい怪物の姿を見て、びっくりぎょうてんしてしまいました。
とっさには、何ものとも、見わけられませんが、ともかく、まっ黒に光った大グマほどもある、ながい足の何本もはえた怪物です。二つの大きな目が、ヘッドライトをうけて、ギョロギョロと光っています。そのうえ、頭のてっぺんに、おそろしいツノがとびだしているのです。その怪物が、グッと、頭をさげて、するどいツノで、自動車にむかって、いどみかかってくるように見えたのです。
うしろの座席にいた客の紳士も、怪物に気づきました。そして、あっとさけんだまま、クッションの上にうつぶせになってしまいました。
こちらから、見ている人たちは、自動車がカブトムシにぶつかってくれれば、いくら怪物でも、きっときずつくだろうと、手に汗をにぎっていたのですが、自動車は、怪物のまえ五メートルほどに、せまったとき、キーッという音がして、急停車しました。運転手が、ブレーキをふんだのです。
すると、つぎのしゅんかん、じつに奇怪なことが、おこりました。
巨大なカブトムシは、前から、つきすすんでくる自動車を、ものともせず、そのまま走りつづけていましたが、それが急停車しても、すこしも速度をかえず、グングン、前にすすんで、いきなり、自動車の前部に、はいあがったのです。
運転手は、すぐ目の前にせまってくる一角獣のツノを見ました。そのうしろに光っている、巨大な二つの目を見ました。そして気が遠くなってしまったのです。
こちらから見ていると、怪物は、自動車のまっ正面から、車体の上にはいあがり、そのやねをのりこえて、自動車の後部へおり、そのまま、また電車道を走っていくのです。長い足を、めまぐるしく、動かしながら、大きなずうたいを、はこんでいくのです。
怪物と、おまわりさんや町の人たちとのへだたりが、だんだん遠くなっていきました。人間の二本の足では、とても怪物におっつけないばかりか、人間は、つかれるけれども、怪物は、すこしもつかれるようすが見えないのです。
怪物は銀座四丁目の四つかどを、数寄屋橋の方へ、まがりました。しばらく走りつづけるうちに、数寄屋橋の交番から、ふたりのおまわりさんが、とびだしてきました。そして、ピストルをさしむけながら、怪物のゆくてに立ちふさがったのですが、カブトムシはへいきで、まるで機械のように、そのおまわりさんたちを、めがけて、つきすすんでいきます。パーン、パーンと二発の銃声がひびきました。しかし怪物は、すこしもひるみません。そのまま走りつづけて、おまわりさんたちを、左右にはねとばしてしまいました。
ふたりのおまわりさんは、おそろしいいきおいで、地面にたたきつけられ、きゅうに起きあがることもできません。あのするどいツノでつきさされなかったのが、まだしも、しあわせというものでした。
怪物は、あれよあれよというまに、数寄屋橋をわたり、きゅうに右にまがったかとおもうと、どこかへ、見えなくなってしまいました。おまわりさんや、町の人たちが、橋をわたって、そのへんを、くまなくさがしまわったのですが、あの怪物のいやらしい姿は、もう、どこにも、見あたりませんでした。まるで、消えうせたように、いなくなってしまったのです。