井戸の中から
井上君とノロちゃんは、それから、どうなったのでしょう。魔法博士の黄金怪人が「だいじな秘密」といったのは、いったい、何をいみするのでしょう。それは、もっとあとになってわかるのです。いまは、場面をかえて、山下清一という東方製鋼会社の社長の大きなやしきにおこった、奇怪なできごとをしるさねばなりません。
山下さんのひろいやしきは、世田谷区の経堂にありました。庭が三千平方メートルもあるのです。ざしきの前の築山のあるりっぱな庭のほかに、うらてに、雑木林にかこまれた空地があります。
ある夕方のこと、山下さんの子どもで、小学校六年生の不二夫君という少年が、その空地で、ひとりで遊んでいましたが、あたりが、だんだん暗くなってきたので、もう部屋に帰ろうとおもって、林の中を歩いているときでした。
不二夫君は、ふと、うしろのほうで、なにか動いているような感じがして、ヒョイと、そのほうをふりむきました。
空地のむこうのすみに、水のかれた古井戸があります。それには、子どもの胸ぐらいの高さのしっくいでぬりかためた、丸い井戸側がついているので、人が落ちこむような心配はありません。それで山下さんのうちでも、うずめもしないで、そのままにしてあったのです。
その青ゴケのはえた、古い井戸側の中から、なにかチラッと、のぞいたものがあるのです。ちょっとしか見えないので、何者だかわかりません。動物ではないようです。なにかしら、ピカピカ光る金色のものでした。その金色のものが、すこしずつ、あらわれてくるのです。
不二夫君は、ゾーッとして、その場から動けなくなってしまいました。ちょうどそのとき、大きな木のみきのかげにいましたので、そのみきにかくれて、古井戸の方を見つめました。
井戸の中からは、奇怪な金色のものが、だんだん大きく、姿をあらわしていました。
あっ! 顔だ。金色の顔です。話にきいている、黄金仮面みたいな金色の顔です。ほそい目、三日月がたの口、あの口から、もし、タラタラと血がながれたら! とおもうと、不二夫君は、からだがツーンとしびれて、背中をつめたいものが、はいあがってくるような気がしました。
金色の両手が、井戸側にかかっています。胸があらわれてきました。腹が、それから足が、みんな金色です。そして、その怪物は、とうとう井戸の外へのりだして、こちらへやってきます。
不二夫君は、息もできません。助けをよぼうとしても、声が出ないのです。
夕やみの中に、黄金の仏像のように、キラキラと光ったからです。そいつが、機械じかけのような歩きかたで、ジリジリと、こちらへ近づいてくるのです。
「不二夫君!」
歯車のきしむような声が聞こえました。怪物の三日月がたの口が、ものをいったのです。怪物は、不二夫君が木のみきにかくれていることをちゃんと知っていました。
こちらは、返事をするどころではありません。気がとおくなるような感じで、身をちぢめているばかりです。
「不二夫君、きみのおとうさんが、だいじにしているグーテンベルクの聖書を、もらいにきた。いまから三日のあいだに、きっと、ちょうだいする。おとうさんに、そういっておくのだよ。」
金色の怪物が、妙なことをいいました。「グーテンベルクの聖書」とは、いったい、なんでしょう。
怪人はそういったかとおもうと、そのまま、向こうのほうへ、とおざかっていきました。
不二夫君は、あまりの恐ろしさに、木のみきにしがみついたまま、身うごきもできません。しかし、目だけは、怪人のうしろ姿をみつめていました。
すると、そのとき、じつにふしぎなことがおこったのです。
夕ぐれのうす暗い林の中を、向こうへ立ちさる怪人の姿が、みるみる小さくなっていくのです。おとなのからだが、中学生ぐらいになり、小学生ぐらいになり、幼稚園の生徒ぐらいになり、だんだん小さくなって、古井戸のそばへ行ったときには、二十センチぐらいのこびとになってしまいました。
古井戸のところまでは、十メートルぐらいですから、そんなに小さく見えるはずがありません。たしかに、怪人のからだが小さくなったのです。ほんとうに二十センチほどになってしまったのです。
不二夫君は、夢でも見ているのではないかと思いました。まえに「ガリバー旅行」のお話を読んだことがあります。あのお話には小人国というこびとばかりの国がでてきます。不二夫君は、じぶんがその小人国へきたような、ふしぎな気持がしました。すぐ十メートルほどむこうに、小人国の黄金怪人が歩いているのです。不二夫君のてのひらぐらいの、かわいらしい怪人です。つかまえようとおもえば、ぞうさなくつかまえられるかもしれません。
しかし、不二夫君には、その勇気がありませんでした。あの恐ろしい怪人が、みるみる小さくなっていったという、とほうもないできごとが、なんだかきみが悪くて、近づく気になれないのです。
すると、二十センチの黄金怪人は、じぶんのせいの何倍もある古井戸の井戸側を、よじのぼりはじめました。垂直の井戸側ですが、古くなって、ところどころに、小さな穴ができているので、そこへ手と足をかけて登っているらしいのです。そして、たちまち、井戸側の上に登りつき、スーッと古井戸の中へ、姿を消してしまいました。
不二夫君は、古井戸までいって、中をのぞいてみたいと思いましたが、とてもその勇気がありません。小さくなった怪人が、井戸の中で、またもとの姿にもどって、まちかまえているのではないかと思うと、ゾーッと恐ろしくなるのです。
不二夫君は、そのまま、あとをも見ずに、おうちの方へかけだしました。そして、息をきらして、おとうさんの部屋へとびこんでいきました。
「どうしたんだ、不二夫。まっさおな顔をして。」
「おとうさん、たいへんです。黄金仮面が、あらわれたのです。顔ばかりじゃなくて、からだじゅう金色のやつです。」
不二夫君は、いま、庭で見たことを、くわしく話しました。そして、その黄金怪人がグーテンベルクの聖書を、三日のうちにもらいにくるといったことも、話しました。
「なに、グーテンベルクの聖書を盗みにくるというのか。ハハハ……、そんなことができるものか。あれは、鉄筋コンクリートの蔵の中の大金庫にしまってある。その金庫のひらきかたは、おとうさんのほかには、だれも知らないのだ。どんな魔法つかいだって、あれが盗みだせるものじゃないよ。」
おとうさんは、そういって気にもとめないようすです。
不二夫君は、グーテンベルクの聖書というものが、蔵の中にしまってあることは聞いていましたが、それが、どうして、そんなにだいじなものだか、よく知りませんので、おとうさんに、たずねてみました。するとおとうさんは、こんなふうにお話しになるのでした。
「おまえは、まだ学校でおそわらないだろうが、グーテンベルクというのは、今から五百年もまえのドイツ人で、活版印刷を発明した人だよ。その人が、じぶんで印刷したキリスト教の聖書が、世界じゅうに、ごくわずか残っていて、ひじょうにとうといものになっている。何十年に一度、その聖書の一ページだけでも、古本屋やこっとう屋にあらわれると、世界じゅうから買いてが集まってきて、おそろしく高いねだんがつくのだよ。
おとうさんは、今から十何年まえに、会社のロンドン支店長をやっていたが、ちょうどそのころ、ロンドンのこっとう屋に、グーテンベルクの聖書のバラバラになったページが、十四枚そろったのが出た。そのときも、世界じゅうから買いてがやってきて、大さわぎになったが、おとうさんは、昔から、古い本をあつめるのがすきだったから、会社からお金をかりて、思いきったねだんをつけて、とうとう、その十四枚を手にいれたんだよ。そのころの三十万円だった。いまの日本のお金にすれば、一億円いじょうだよ。」
「へえ、たった十四枚の本の切れっぱしが、一億円なの?」
不二夫君は、びっくりしてしまいました。
「グーテンベルクの聖書は、世界でいちばん高い本だよ。もし、ちゃんと、そろった一冊の本が出れば、十億円もするかもしれない。そういう、そろった本は、どこの国の博物館にあるとか、持ち主がわかっていて、なかなか売りものには出ないのだがね。おとうさんの十四枚の聖書も、日本では、知っている人がすくないけれども、世界じゅうの学者や、本のすきな人たちには、よく知られているのだよ。」
不二夫君は、そんな宝物が、うちの蔵の中にあるのかとおもうと、なんだか、胸がドキドキしてきました。
「金色の怪人は、それを知っていたのです。だから、盗みだしにくるのですよ。おとうさんどうしましょう。はやく、ふせがなければ……。」
不二夫君は、もう気が気ではありません。しかし、おとうさんは、おちつきはらっています。
「そんな金色の人間なんて、いるはずがない。おまえはまぼろしでも見たんじゃないか。ちょっと来てごらん。熱があるんじゃないのかね。」
そういって、不二夫君をひきよせ、ひたいに手をあててみるのでした。
「べつに熱があるわけでもないね。しかし、おとうさんには、信じられないね。もし、その金色のやつが、どろぼうだとすれば、グーテンベルクの聖書なんか盗んだって、なんにもならないのだよ。いくら高くても、売ることができないからだ。日本ではおとうさんのほかに、だれも持っていないのだから、売ろうとすれば、うちから盗みだしたということが、すぐにわかってしまう。売れないようなものを盗んだって、しかたがないじゃないか。」
「でも、おとうさん。あいつは、売らないで、じぶんで持っているつもりかもしれませんよ。宝物をあつめて喜んでいるどろぼうだってありますからね。」
不二夫君は、やっぱり少年探偵団員のひとりでした。ですから、世のなかにはフランスのルパンみたいな、美術品ばかりあつめているどろぼうもいることを、ちゃんと知っていたのです。
「うん、そういうどろぼうもあるかもしれない。しかし、いくら宝物をあつめても、ひとに見せて自慢できないのでは、しかたがないじゃないか。日本に、そんなどろぼうがいるはずはないよ。やっぱり、おまえは、まぼろしを見たんだ。なにか、こわい本でも読んだのじゃないのかね。」
おとうさんは、どうしても、本気にしてくれないのです。
不二夫君は、こまってしまいました。ずっとまえに、黄金仮面というふしぎなどろぼうが、この東京へあらわれたではありませんか。からだじゅう金色のやつだって、どうして、あらわれないときめることができるでしょう。
不二夫君は、まぼろしを見たのではありません。たしかに黄金の怪人を見たのです。そのぶきみな声を聞いたのです。あいつは、だんだん、からだを小さくする、ふしぎな術をこころえています。ですから、小さくなって蔵の中へしのびこむのも、わけはないかもしれません。
ああ、どうしたらいいのでしょう。なんとかして、おとうさんを本気にさせることはできないでしょうか。