鏡の前に
骸骨紳士は、前とうしろからとりかこまれ、どこにも逃げ場所はなかったのに、こんどこそ、煙のように消えうせてしまいました。
かれのあらわれた席の両方にならんでいる特別席には、大ぜいの見物が腰かけていたのですから、そのほうへ逃げることはできません。前には千の目がにらんでいて、こちらもだめです。残るのはうしろだけです。しきりの幕をくぐって、特別席のそとへ逃げるほかはないのです。
しかしそちらには、サーカスの人たちがかけつけていました。また、特別席の横のほうにはすわる席があって、そこからは、特別席のうしろがよく見えるのですから、骸骨紳士が幕をくぐって逃げだせば、すぐにわかるはずです。ところが、その見物たちは、なにも見なかったというのです。サーカスの人たちも、特別席のうしろをくまなくさがしましたが、なにも発見できませんでした。
そのころには、大テントのそとにも、サーカスの人たちが、さきまわりをしていました。テントの下をくぐって逃げだすかもしれないと思ったからです。しかし、骸骨紳士は、そこへもあらわれません。まったく、かげもかたちもなくなってしまったのです。怪物は、吹きけすように消えうせたのです。
このさわぎで、見物人の半分ぐらいは帰ってしまいましたが、勇敢な見物人が残っていて、よびものの空中曲芸を見せろと、やかましくいいますので、演技をつづけることになりました。
そのとき、木下ハルミという美しい女曲芸師が、大テントを出て、楽屋につかっている大型バスのほうへいそいでいました。ハルミさんは、空中サーカスの女王といわれている、この一座の花がたですが、空中曲芸をつづけることになったので、忘れものをとりにいくために、テントを出たのです。
大テントのそばのあき地には、車体の横に「グランド=サーカス」と書いた大型バスが、いく台もとまっています。ハルミさんは、その一つに近づくと、バスのうしろにおいてある三だんほどの踏みだんをかけあがって、そこのドアを開きました。曲芸師たちは、さっきのさわぎで、みんな大テントのほうへいっているので、バスの中にはだれもいないはずです。
だれもいないと思って、サッとドアを開いたのです。ところが、そこには、うす暗い電灯の下に、ねずみ色の服をきて、同じ色のソフトをかぶったままの男が腰かけていました。このバスは女ばかりの楽屋につかっているのですから、そこに男がいるなんて、思いもよらないことでした。ハルミさんは、ハッとしてその男を見つめました。
バスの中には、両側に、ずっと棚のようなものがとりつけてあって、その上に、化粧をするための鏡がならべてあるのです。男は、その鏡の一つの前に腰かけて、じぶんの顔を鏡にうつしていました。ですから、こちらからは横顔しか見えないのですが、なんだか、いやなきみのわるいかんじです。
「あら、そこにいるの、だれ?」
ハルミさんが、とがめるようにいいますと、男がヒョイとこちらをむきました。
ああ、その顔! 目のあるところが、まっ黒な大きな穴になっていて、鼻も三角の黒い穴、その下に上下の歯がむき出している。あいつです。さっき特別席から消えた骸骨紳士が、こんな所にかくれていたのです。ハルミさんは、「キャーッ!」と叫んで、踏みだんをとびおり、大テントのほうへかけ出しました。