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影男-最底层的人(2)
日期:2022-02-13 23:47  点击:312

 やがて、コップをからにしてしまうと、物ほしそうな、実にいやしい顔になって、
「もう一杯、ね」
 と、ねこなで声を出した。そして、新しく来たコップをまた半分ほど飲んだが、そのころから、何かうつろな目になって、考えごとをはじめた。しばらくむっつりと黙りこんでいたが、血走った大きな目を(このぼろ男の目は、団十郎のように大きな二かわ目であった)パチパチやったかと思うと、目の中がわくようにふくれ上がって、ポロポロと大粒な涙がこぼれた。
「おまえさん、聞いてくれるかね。おらあ、おまえさんに話したいことがあるんだ」
 そして、犬のようにあどけなく首をかしげて、じっとこちらを見た。
「うん、聞くよ。話してごらん」
 男は大きな目を細くして、赤い舌でペロペロとくちびるをなめた。
「若い衆、おれをなんだと思うね……人外さ。それはわかってらあ。だが、おれの前身をなんだと思うね」
 速水は人間観察に慣れていたので、この質問に答えるのはわけもなかった。
「軍人だろう。それも将校だ。大尉かね」
「えらい。おまえさん、人相見かね。そのとおりだよ。おれは陛下の忠勇なる陸軍大尉だった。生涯(しょうがい)、軍に身をささげるつもりだった」
 そういって、またポロポロと涙をこぼした。この五十男は、兵卒から経上がった職業軍人らしかった。そういう体臭が感じられた。
「りっぱな軍人だった。金鵄(きんし)勲章もいただいとる。感謝状を何本ももらっとる。北支の戦場では、元野部隊長閣下が、親しくおれの手を取って『えらいやつだ』と涙をこぼして感謝された。おれは百三十人の生き残りの部下とともに、五十六高地の孤塁を守って、三千の敵を追いちらし、後続部隊との連絡を全うした。それは大作戦の成否にかかわる重大地点だった。おれの金鵄勲章は、その功績によるものだ」
 ぼろ男も、それを語るあいだだけは、姿勢もしゃんとして、百戦錬磨(れんま)古強者(ふるつわもの)らしく見えた。だが、かれはまたぐったりとなってしまった。そして、しきりに大粒の涙を流した。
「おれは申しわけない。実に申しわけない。忠勇なる陛下の軍人ともあろうものが、このざまはなんだ。畜生道におちて、人外になってしまった。おらあ死にたい。そこいらのやつをみんな殺して、死んでしまいたい。だが、もう手おくれだ。日本が降伏したとき、切腹することができなかった。なぜできなかったか、おれにもわからない。もともと、おれは人外だったんだ。軍という組織をはなれたら、何一つできないぐうたらべえだったんだ。あれからというもの、落ちた、落ちた、世の中の底の底まで落ちた。そして、人外のけだものになりさがってしまった」
 男は酒場の中をグルッと見まわした。かれの声がだんだん大きくなったので、酒場の客たちのうちには、好奇の目でじろじろこちらを見ているものもあった。
「若い衆、おれが人外だという証拠をひとつ話そうか……おらあ、かかあがある。それから、ちっちゃい娘がある。それだけだ。掘っ立て小屋に住んでいる。おれが木ぎれを拾い集めて造ったんだ。娘はまえのおっかあの子だ。そのおっかあは死んじまった。だから、娘は今のおっかあのままっ子だ。いじめられる。今のおっかあは肺病やみで、寝ているんだ。寝ていて娘をこき使い、ひっぱたくんだ。その娘をいくつだと思うね。まだ十二なんだぜ。学校なんか行けやしない。毎晩夜ふけまで、酒場へ花を売りに行くんだ。十二の子のその収入が、おれたちの全部の収入だ。え、わかるかね。軍人の恩給証書なんて、とっくに高利貸しにとられちゃった。おれがみんな飲んだのさ。おれのかわいい娘は、いまにパンパンになるんだ。え、どうだね。金鵄(きんし)勲章をいただいた忠勇なる帝国軍人のひとり娘が淫売(いんばい)になるんだぜ。
 おらあ、日本が降伏してから、いろんな勤めをやってみたが、とても続かない。軍人にゃあ、せちがらい浮き世は渡れねえんだ。みんなしくじった。あっさりしくじっちゃった。おれはもともとのんべえだったが、アル中こじきにおちぶれたのは、いくさに負けたからだ。


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