もし後日、毛利氏がなんらかの疑いを受けるようなことがあっても、同氏が二階にいたことは、全部の召し使いが証明するであろう。つまり、完全なアリバイを用意したわけである。けっしてにせのアリバイではない。毛利氏は、その時間のあいだ、二階座敷から一歩も出ないのだから、少しの欺瞞もないアリバイなのである。
ちょうど一時、一台の自動車が、板べいから一町もへだたった道路に停車した。毛利氏はすぐにそのほうに双眼鏡を向けて観察した。自動車が五、六間先のように大きく見える。自動車のドアがひらいて、ふたりの女が降りた。さきに降りたのは三十五、六の洋装婦人で、毛利氏の知らない女。そのあとから、二十五、六歳の非常に美しい洋装の女が降りてきた。彼女の傲然とした美貌が、すぐ目の前に見える。毛利氏を裏切り、ののしり、はずかしめた比佐子である。毛利氏はそれを見ると、ギリギリと歯ぎしりをかんだ。額の静脈がおそろしくふくれ上がった。
注意して、そのあたり一帯を双眼鏡でながめまわしたが、だれも見ている者はなかった。人家には遠いし、季節はずれの畑には人影もなかった。
さきほどのトビは、獲物を期待するもののように、空に大きな輪を描いて、とびつづけていた。
ふたりの女は、かりの門をあけて、板べいの中にはいった。双眼鏡はずうっとそれを追っている。へいの中は、何の建物もなく、一面の白い砂だ。ふたりの女は、その白砂の上を、前後してこちらへ歩いてくる。
そのとき、先に立っていた年増女のほうが、何を思ったのか、いきなり走りだした。まっすぐではなく、変な曲線を描いて走った。アッというまに、砂の上に転倒した。助けを求めてもがいている。
比佐子はそれを見ると、びっくりして、そのほうへ駆けよろうとした。彼女は当然、曲線を描かないで、まっすぐに走った。そして、十歩ほど走ったとき、恐ろしい異変が起こった。比佐子のハイヒールの足が動かなくなった。白い砂の中へ、吸いこまれるように引きつけられて、歩けなくなった。
足を抜こうとして、一方の足に力を入れると、その足のほうがさらに深く吸いこまれた。双眼鏡の中に、彼女の驚きの表情がはっきり見える。だが、彼女はまだこわがってはいない。ただ驚いているばかりだ。
彼女はしきりに手を振って、足を抜こうともがいた。しかし、もがけばもがくほど、ぐんぐん足がはまりこんでいく。もうひざの近くまで砂の中にはいってしまった。こうなっては、足をあげようとしても、あがるものではない。足首を堅く縛られて、地の底へ引き入れられているのも同然だ。
やっと彼女は悟った様子である。そこがなんの足がかりもない底なしのどろ沼であることを悟った様子である。彼女の顔が恐怖にゆがんだ。目がとび出すほど見ひらかれ、口が大きくひらいた。そして、その口から叫び声がほとばしった。何を叫んでいるのかわからないが、もうひとりの女に救いを求めているのであろう。
だが、つい目の先に倒れている年増女は、比佐子を助けようともしなかった。双眼鏡をその顔に向けると、彼女がニタニタ笑っていることがわかった。さも小気味よげに笑っていて、立ち上がろうともしないのだ。
双眼鏡を比佐子にもどす。もうももまで没していた。スカートがふわりと水に浮いたように、砂の上にひらいている。しかし、もう白い砂ばかりではなかった。彼女がもがくにつれて、砂の下のどろ土がこねかえされ、スカートをよごしていた。
比佐子は何かにとりすがろうとして、手をのばして砂をつかんだ。しかし、そこも同じどろ沼であることがすぐわかったので、あわてて手を引きもどした。堅い地面のように見えていて、砂の層の下は、手の届くかぎりどろ沼であることがわかった。目の前に砂がある。地面がある。しかし、それは彼女をささえる力がないのだ。固体ではなくて、半流動体なのだ。すぐ向こうに、彼女の連れの女が倒れている。その女は沈まない。どろ沼は比佐子の周辺だけなのだ。あすこまで行けばいい。ほんの一メートル歩けばいい。しかし、どうして歩くのだ。ももまで吸いこまれていて、どう身動きができるのだ。
影男-无底深渊(2)
日期:2022-02-14 23:50 点击:260
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