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影男-不可思议的老人(1)
日期:2022-02-14 23:50  点击:267

不思議な老人


 影男はその恐ろしい光景を目撃したわけではない。ただ殺人業者たちに案を与えたにすぎない。
 それでも、その案がみごとに実現されたと聞き、富豪からの謝礼金の分けまえを分配されたときには、実にいやな気持ちがした。もがき叫びながらどろの中に沈んでいく美しい女の姿が、むざんな幻影となってかれを苦しめた。
 この()さはらしには、遊蕩(ゆうとう)紳士殿村啓介に変身して、いまわしい記憶を洗い落とすほかはないと思った。影男は、速水、綿貫、鮎沢、宮野などの別名を持っていたが、殿村啓介はそれらの別名の一つで、希代の遊蕩児であった。底なし沼事件ののちの数日間、影男はその殿村啓介になりきって、紅灯緑酒のちまたを遊弋(ゆうよく)した。
 そして、その晩は、銀座のキャバレー『ドラゴン』のフロアの正面、最上の客席の一郭を占領していた。京の祇園(ぎおん)から呼びよせただらりの帯の舞い子が四、五人、柳橋の江戸まえのねえさんたちが四、五人、西洋道化師に扮装(ふんそう)した幇間(ほうかん)が四、五人、キャバレーの盛装美人が七、八人、それらおおぜいのきらびやかな色彩に取りまかれて、殿村遊蕩紳士は、酒杯を重ね、女たちの和洋とりどりの冗談に応酬し、舌頭の火花に興じていた。
 フロアにはアクロバット・ショーが演じられていた。全身に金粉を塗った三人の美女が、キラキラ光りながら、ヘビのアクロバット踊りを踊っていた。立っているひとりの胸にもうひとりの黄金女が、大蛇(だいじゃ)のように巻きついて、首と胸とに顔のある一身二頭の異形の舞踊を踊っていた。
 そのショーの舞台には、赤、青、黄色と、五色の照明が交錯し、客席からはテープ花火がポンポンと発射され、五彩のテープが三人の金色の踊り子の頭上に雨と降り、無数の巨大なゴム風船が、五色のクラゲの群れのように空間を漂い、はでなバンドの気ちがいめいた奏楽が、ギラギラした色彩の混乱と相応じて、場内数百人の男女を狂気の陶酔に導いていた。
 耳もろうする奏楽、テープの発射音、泥酔男(でいすいおとこ)の蛮声、女たちの嬌声(きょうせい)の中に、ふと、異様なささやき声が、影男の殿村の耳たぶをくすぐった。
 ひょいと顔を向けると、そこに、白髪白髯(はくぜん)の老人の顔があった。かつらのようなまっしろなふさふさした髪、ぴんとはねあがったまっしろな口ひげ、胸までたれたみごとな白ひげ、黒いセビロを着た上品なおじいさんだ。上品のうちにも、どこかメフィストめいたぶきみさをたたえた不思議な老人だ。それが殿村のイスのうしろからおよび腰になって、殿村の耳に口をつけんばかりにして、同じことをくりかえしささやいているのだ。
「つまらないですね、こんなもの。たいくつですね。さびしいですね。あなたお金持ちでしょう。そんなら、こんなものより百倍もすばらしいものがあるんですがね」
 この上品な老人が、猥※(わいせつ)[#「褒」の「保」に代えて「執」、U+465D、86-13]見せ物のポンピキとは考えられなかった。ありふれた痴技の見せ物でないとすると……。
「それは、どこにあるんだね」
 影男の殿村も、つい好奇心を起こさないではいられなかった。
「東京ですよ。自動車で一時間もかかりません」
「きみが案内するというのかい?」
「そうですよ」老人はぐっと声をひそめて、「現金で五十万円いりますがね……」
「今は持っていないが、いつでも、そのくらいなら出せるよ」
「そうですか。では、ご相談にのりましょう。しかし、女たちは帰してください。あなたおひとりでないと困るのです」
「ここに待たせておいてもいいが、時間はどのくらいかかるんだね」
「いや、とても待たせておくわけには行きません。一日かかるか、二日かかるか、あなたのお気持ちによっては、一週間でも、一カ月でも、ひょっとしたら一年でも……」


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