地底の大洋
径一メートルの鉄の円筒が水上二尺ほどにのびたとき、その上部の平らな部分の円形鉄板のふたが、ちょうつがいでパッと上にひらき、その中から鉄ばしごのようなものがするすると伸びて、池の岸の岩の上にかかった。
その次には、円筒の中から、人間がはい上がってきた。やみに慣れた目には、その姿がじゅうぶん見わけられる。その男は、ぴったり身についた黒いシャツとズボン下のようなものを着ている。それは夜の保護色であり、また狭い円筒内の身動きに便したものであろう。影男も、こういう保護色のシャツをよく利用するので、すぐにその意味を察することができた。
その黒い男は、今わたした鉄ばしごを渡って、岸にあがると、こちらへ近づいてきた。老人が客を連れてここにいることを、よく知っている様子である。
老人のほうでも立ちあがって、その男を迎え、何かボソボソと立ち話をしていたが、やがて影男の殿村のほうに向き直って、やっぱりささやき声で、その黒い男を引き合わせた。
「これからは、この人が案内係です。お金は、あとで、この人に渡してください。わしはここで失礼します」
「この人はだれですか」
影男がたずねると、老人は手を振って、
「名まえなんかありません。ただ、あんたを不思議の国へ案内する人です。不思議の国には、たくさんの人間がいますが、だれも名まえはないのです。あんたのほうでも、名まえを名のる必要はありません。この男は、わしを信用して、あんたを受け取る。あんたはこの男を信用してついていけばよいのです。これがすなわち冒険の妙味ですよ」
老人はニヤニヤと笑ったらしい。そして、そのまま、どこかへ立ち去ってしまった。
あとに残った黒シャツの男は、影男の手をとって、
「どうか、こちらへ」
といいながら、鉄ばしごのほうへ導く。その声はまだ若々しく、三十前後の感じであった。
だまってついていくと、鉄ばしごを渡り、円筒の上にのぼった。そこに丸い口がひらいている。
「この中にも、たてにはしごがついています。それを降りるのです」
黒い男が、足から先に穴の中へはいっていって、下から声をかけた。影男もそれにならって円筒の内側のはしごを降りる。ふたりが円筒の中へはいってしまうと、自動的に、外の鉄ばしごが円筒の中へすべりこみ、たてのはしごと重なる。そして、丸い鉄のふたがしまり、内部は真のやみとなった。エレベーターに乗っているような気持ちになる。つまり、円筒が池の中へ沈んでいるのだ。
ふたりは狭い円筒の下部にからだをくっつけ合って立っていたが、円筒の沈下が止まると、目の前の鉄の壁に、たてに糸をさげたような銀色の光がさし、それがだんだん太くなっていく。円筒の壁の一部がドアになっていて、それがひらいているのだ。その向こう側には電灯がついているらしく、ドアがひらくにつれて、光がさしこんでくる。
池の底では、円筒が二重になっているらしく、出入り口も二重ドアで、それがひらいても、けっして水が漏れてくるようなことはない。ふたりがそこから出ると、二重ドアは自然にしまり、いよいよ地底に密閉された感じになる。
そこはセメントで自然の岩を模した洞窟のようであった。どこにあるのか、薄暗い電灯の光がその辺を照らしている。その光で見ると、黒い男の着ているのは、黒ビロードのシャツとズボン下であることがわかった。顔にも目隠しの黒ビロードのマスクをつけている。
洞窟の入り口のそばに岩の枝道があり、鉄のとびらがしまっていたが、男はそれをひらいて、中に案内した。そこは、やはりコンクリートの岩壁で囲まれた小べやで、簡素なデスクと長イスが二脚置いてあり、デスクの上には電話機と文房具がのっている。一方の岩壁には配電盤がとりつけられ、ずらっとスイッチが並んでいる。
ふたりはそこのイスにかけて、向かい合った。
「ここで取り引きをします。五十万円をお出しください」
覆面の男が、そっけない事務的な調子でいった。いわれるままに、札束を手渡して、さて、質問をしようとすると、相手はそれを止めるように手をあげて、
「いや、何をお尋ねになってもむだです。わしは門番です。門番はいっさいお答えしないことになっています。やがて、何もかもおわかりになるときが来るでしょう。サスペンスとスリルというやつですね。まず地底の別世界をゆっくりお楽しみください。ここを出て、奥へ奥へとおいでになればよろしいのです。一本道です。すると、じきに美しい案内者にお出会いになるでしょう……では、これで失礼します」