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影男-地底大洋(2)
日期:2022-02-16 17:45  点击:237

 鉄のとびらをひらいて待っているので、出ないわけにはいかなかった。もとの洞窟(どうくつ)に出ると、うしろでとびらがぴったりと締まった。いわれたとおり、奥へ奥へと歩いていくほかはない。
 どこに光源があるかわからない薄暗い光で、人工の岩壁は自然の洞窟そのままに見える。そこをひとりとぼとぼと歩いていくのは、いかにも心細い。
 しばらく行くと、洞窟がまがっているかどへさしかかった。そのかどをひょいと出ると、目の前に白いものが立っていた。それは、さすがの影男もアッといって立ちどまるほど美しいものであった。
 黒い岩はだの前に、全裸の美女が立っていた。黒髪はうしろにさげたまま、身に一糸をもまとわぬ自然のおとめである。日本の女に、こんな均整のとれたからだがあるのかと疑われるほどであった。顔も美しかった。それが少しのはじらいもなく、にこやかに笑って近づいてくる。
 あきれて、ぼんやりと突っ立っていると、おとめはかれの手をとって、無言のまま、どこかへ導いていく。こちらも(おし)のようにだまりこんでついていく。
 洞窟の少し広くなった場所に出た。おとめが岩壁のどこかへ手を当てる。目の前の岩の一部がゆらゆらとゆれて動きだし、そこに大きな穴ができた。つまり、岩のとびらがひらいたのである。
 ほおをかすめる暖かい風。岩穴の中は、もうもうとたちこめる一面の白い煙。やがて、それが煙ではなくて、湯気であることがわかった。
 おとめは影男をその湯気の中へ引き入れたが、すると、いまひとりの同じ姿のおとめがどこからともなく現われて、ふたりがかりでかれの洋服を脱がせはじめた。美しい追いはぎのように、シャツからさるまたまで、はぎとってしまった。そして、かれは岩のあいだにたたえられた温泉のような湯の中につけられ、じゅうぶん暖まってそこからはいだすと、こんどはなめらかなまないた岩の上に寝かされて、ふたりのおとめが全身を手のひらでこすって、あかを落としてくれた。そして、また湯にはいって、あがると、からだの水分をきれいにふきとってくれ、新しいシャツとさるまた、その上に黒ビロードのぴったり身についた衣装を着せてくれた。さっきの門番が着ていたのと同じものだ。
 おとめたちはにこやかに笑うばかりで、ひとことも口をきかなかった。影男もわざとものをいわなかった。しかし、お互いにじゅうぶん用は足りたのである。
「人界のことばを忘れさせ、人界のあかを落とし、人界の衣服もとりかえて、これから地底の別世界の住人となるのだな。この段どりはなかなかよろしい。気に入った。このぶんだと、この世界の設計者は、よっぽど気のきいたやつにちがいない」
 すっかり悦にいって浴場を出た。すると、かれのうしろで、岩のとびらがぴったりしまり、ふたりのおとめはその中に隠れてしまった。かれは岩をひらくすべを知らないので、そのままもとのどうくつを、入り口と反対の方角へ歩いていくほかはなかった。
 行くにしたがって洞窟の幅は狭くなり、天井は低くなって、やっと人間ひとり通れるほどのトンネルに変わってきた。照明もだんだん薄暗くなり、ついにはまったくのくらやみにとざされてしまった。しかし、影男は引っ返さなかった。これもこの世界の設計者の計算された巧知にちがいないと思ったからだ。
 その細い暗い道をしばらく行くと、ついに行きどまりになってしまった。あたりは真のやみであった。手さぐってみると、右も左も前もがんじょうな岩はだで、通り抜けるようなすきまはどこにもない。それでも、かれは引っ返さなかった。なにごとかを予期して、そのくらやみにじっと立ちどまっていた。
 かれの予想は的中した。前面の岩がスーッと横に動いて、そこにぽっかり通路ができた。ここにも岩のとびらが待っていて、それが自働的にひらいたのだ。
 ひらいた岩のうしろに、急な上りの階段があった。ためらわずそれを上っていった。上りきると、眼界がパッとひらけた。ああ、なんということだ。そこは、見渡すかぎり、際涯(さいがい)もない大海原(おおうなばら)のまっただなかであった。ありえないことが起こったのだ。
 くらくらと目まいがした。魔法つかいの目くらましか、それとも、おれはさいぜんから、ずっと夢を見つづけていたのか。
 ドウドウと波のうちよせる音がひびいていた。空は青々と晴れ渡り、一点の雲もなかった。はるかの水平線が地球の丸さを現わしていた。目路(めじ)のかぎり島もなく、船もなく、ただ空と水ばかりであった。
 足もとを見ると、かれが立っているのは、三メートル四方ほどの岩の上である。いつのまに島流しされたのであろう。大洋のなかの点のような岩の上に、たったひとり取りのこされているのだ。
 もし、かれが頭の真上を見上げたならば、そこには丸い大きな(かさ)のようなものが、あるいは屋根のようなものが岩上三メートルほどの空中にぶらさがっているのを知り、たちまちこの魔法の秘密を悟ったであろう。その丸屋根のようなものは、いったいどこからさがっていたのか。まさか空中に漂っていたのではあるまい。そこにこの目くらましのいっさいの秘密があった。
 影男ほどの知恵者が、これに気のつかぬはずはない。しかし、とっさには、そこまで考える余裕がなかった。地底の洞窟が、たちまちにして際涯のない大海原に一変した不可思議に、ただあきれ果てているばかりであった。
 そのとき、かれのすぐ目の前の海中に、不思議な現象が起こった。
 その個所だけ異様に波だったかと思うと、おそろしく巨大な魚類の尾びれが、白い水しぶきを上げた。その尾びれは五月のぼりのコイほどの大きさがあった。ひればかりでなく、魚類の下半身が波間におどった。銀色に光るうろこの一枚一枚が一寸ほどもあった。
 いや、それよりももっと驚くべきことが起こった。その巨大なさかなは、人間の顔を持っていた。ひらりと身をひるがえして、上半身を水面に現わしたとき、その上半身は、まばゆいばかり美しい人間の女性であった。黒髪が波に漂っていた。二本の美しい手が、空にひらめいた。うろこのある下腹部の上に、白い二つの乳ぶさがもり上がっていた。首の線も美しく、ぬれた黒髪のあいだからのぞいている顔は、うっとりするほど愛らしかった。その顔が、赤いくちびるから真珠のような歯を見せて、岩上のかれにニッコリと笑いかけた。それは一匹の美しい人魚であった。



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