蛇性の人
人生の裏側を探検することを生涯の事業とする影男にとって、地底パノラマ国の見聞は最も楽しい経験の一つであった。かれはそこでは、いつものゆすりを行なう気にもならず、地底の主人公のちょびひげ紳士と親交を約して別れをつげ、地上世界に立ち帰った。そして、速水荘吉となって、麹町の高級アパートにはいったが、すると、そこにはいくつもの用件が待ちかまえていたなかに、かれの恋人のひとりである山際良子から、急用とみえて、ひんぴんとしてかれに電話のあったことがわかった。
すぐに良子に電話をかけると、至急にお会いしたい、あなたの喜ぶことだ、今夜、ひとりの娘をつれておじゃまするということであった。それまでに、ほかの緊急な用件をすませておいて、からだをあけて待っていると、約束の七時に、良子ともうひとりの娘とが、やって来た。影男の速水は、ふたりをアパートの客間に請じて、対座した。
良子は富裕家庭の有閑令嬢であった。S大学の大学院に籍を置いている二十四歳のインテリ娘だが、ふとしたことから影男の速水と知り合い、かれの崇拝者となり、恋人のひとりとなったもので、戦後型美貌の持ち主であった。
彼女がつれてきた娘は、富豪川波家の小間使いで、まだ二十を越したばかりの、ういういしい、つつましやかな少女であった。ふたりの娘は長イスにかけ、アームチェアの影男と相対した。
「このかた、千代ちゃんていうのよ。川波良斎、ご存じでしょう。あすこの小間使いなの。あたし、あることで知り合いになって、妹のようにかわいがっているのよ。この人、きょうお昼すぎに、あたしのところへ駆けつけてきて、警察へ届けたものでしょうか、どうしましょうって、泣きだすのよ。聞いてみると、あなたの世界だわ。いつもあなたから頼まれている人世の裏側の、とびきりの事件らしいわ。だから、警察へいうのはあとまわしにして、連れてきたのよ。お聞きになるでしょう」
良子が小間使いを引き合わせておいて、雄弁に説明した。
「それは、よく来てくれた。今夜は何も約束がないから、ゆっくり話が聞ける。川波さんのうちに、何かあったの?」
川波良斎という漢方医みたいな名の男は、戦後成金として世に知られていた。表面は製薬工場主であったが、裏面では何をやっているかわからなかった。長者番付の三十位までにはいるほどの資産家だった。
「川波さんていう人、ご存じ?」
良子がたずねる。
「いや、名まえしか知らない」
「千代ちゃんに聞くと、なんだか気味のわるい人よ。おそろしく執念深い、ヘビみたいな人らしいのよ」
「金もうけの天才には、変わり者が多いね」
「それが並みたいていじゃないらしいのよ。じっと見られると身がすくむような目をしているっていうし、うちの中を歩くのもヘビのような感じで、足音がしないんですって」
「それで何かあったの?」
「なんだかゾーッとするようなことらしいのよ。千代ちゃん、お話ししてあげて」
小間使いの千代は、それまでうつむいていたが、呼びかけられて、ハッとしたように顔をあげた。青ざめた顔に、目だけがギラギラ光っている。
「奥さまが、行くえ不明になったんです。でも、だんなさまは捜そうともなさらないのです」
「奥さまって、どんなかた? いくつぐらい?」
良子がよこあいから口を入れる。
「お若いのですわ。山際さんぐらいに見えますわ、美しい、弱々しいかたです。あたしどもにも、それは優しいかたですわ」
「まあ、あたしぐらいなの? そんなに若いの?」
「だんなさまは、いつも奥さまを嫉妬していらっしゃいました。わたしどもにも、だんなさまのおるす中の奥さまのことを、うるさいほどおききになりますの……ゆうべのことです。奥さまのところへ、篠田さんという男のかたが来られました。奥さまよりちょっと年上の若いかたです。結婚まえからのお友だちらしいのです。だんなさまは、この篠田さんを、いちばん嫉妬していらっしゃいました。篠田さんのうわさが出ると、だんなさまのお顔が変わるくらいでした。