殺人前奏曲
篠田昌吉と川波美与子のふたりは、あの晩は覆面の男の麹町のアパートに一泊して、その翌日、百万円を預金通帳にしてもらって、それを受け取ると、黒覆面の世話で、その日のうちに、墨田区吾嬬町の小さなアパートにひと間を借りた。篠田青年はそれまで渋谷のアパートに住んで、丸の内の東方鋼業に通勤していたのだが、そのアパートを引きはらって、行く先も告げず移転した。会社も無断でやめてしまった。
良斎の執念深いふくしゅうを避けるためである。覆面の男は、速水荘吉と名のった。あの晩、川波邸から二、三町はなれた町かどに自動車が待っていて、三人でそれに乗りこむと、男は覆面をとり、クッションの下から変装用の大カバンを引き出して、車内でセビロを着た。覆面の怪物がりっぱな青年紳士に早変わりをしたのだ。そして、速水荘吉と名のり、ふたりをひとまず麹町のアパートへ連れていったのだ。
吾嬬町のアパートへ引っ越して一週間ほどたったある日、篠田昌吉がびっこを引いて帰ってきた。友だちをたずねての帰途、建築中のビルの下を通りかかったとき、突然、上から鉄筋の断片が落ちてきて、足先に当たったというのだ。
くつ下を脱いでみると、小指の辺がおそろしくはれ上がって、紫色になっていた。
「ちょっとのちがいで助かった。もしあれが頭に当たっていたら、死んでしまったかもしれない」
「で、それを落とした人は、わからなかったの?」
美与子が尋ねた。
「建築事務所へどなりこんでやったが、先方はあやまるばかりで、技師は、そんなものが人道へ落ちるはずがない、おかしい、おかしいと首をかしげているばかりさ」
さっそく、医者に見てもらったが、心配したほどのこともなく、十日もすれば直るだろうといって、手当をしてくれた。でも、しばらくはくつもはけず、ぞうりばきで、びっこを引いて歩かなければならなかった。
そのびっこが直らないうちに、かれはまた外出した。ちょっと足ならしに散歩するつもりのが、つい遠くまで行ってしまった。見なれない大通りだった。ステッキにすがってゆっくり歩いていると、向こうから一台の自動車が走ってきた。あまり交通のはげしくない通りなので、おそろしいスピードを出している。
アッと思うまに、もう目の前に近づいていた。瞬間のできごとだったが、左へよければ先方も左へ、右によければ先方も右へ、こちらの逃げるほうへ迫ってくるように思われ、道のまんなかでドギマギしたが、とっさに心をきめて、相手にかまわず、一方へ駆けだした。足の痛みも忘れて走った。しかし、傷ついた足は、やはり思うままにならず、パッとステッキが飛んで、かれのからだはアスファルトをたたきつけるようにころがっていた。
自動車のタイヤは、かれのからだとすれすれのところを、うなりを生じて飛び去っていった。うしろの番号を見るひまも何もなかった。たちまち向こうの町かどを曲がって、見えなくなってしまった。
さいわいたいしたケガはなかったけれど、むりに走ったので、足の傷が痛みだした。アパートへ帰りつくのがやっとだった。
「どうもおかしい。あの自動車は、ぼくの逃げるほうへ追っかけてきた。ぼくをひき殺そうとしているようなけんまくだった。車には人相のわるい運転手がひとり乗っているばかりだった。タクシーじゃない。ハイヤーか自家用車らしい」
篠田がそれを話すと、美与子も心配そうに、
「へんだわねえ。あなたが外へ出るたんびに、あぶないことが起こるのだわ。ねえ、もしかしたら……」
「エッ、もしかしたら?」
「川波が、あたしたちがここに住んでいることを気づいたのじゃないかしら。そして、だれかにたのんで、あなたのいのちをつけねらっているんじゃないかしら。あの人、まるで気ちがいなんだから、何をするかわかりゃしないわ」
「まさか、このアパートを気づくはずはないよ。あの人にはまるで縁のない方角だもの。それに、もとのぼくのアパートにも、会社にも、ここのことは何もいってないんだからね」
「でも、あたし、なんだか不安でしかたがない。この二、三日、買い物に出るたびに、だれかに尾行されているような気がするのよ。ですから、ときどき、ひょいと突然ふり返ってやるんだけど、べつに怪しい人は見当たらない。それでいて、絶えずだれかに監視されているように思われるの。あたしこわいわ」