毒チョコレート
「きみは神経質だよ。まさか、このアパートを気づいてはいまい。おそらく偶然だ。びくびくしているもんだから、そんな気がするんだよ」
必ずしも偶然とは思っていないのだけれど、昌吉はわざとのんきらしくいってみせた。しかし、かれも、良斎が殺人請負会社に依頼して、ふたりのいのちを取ろうとしていることまでは、想像もしていなかった。
「でも、あたしも気味のわるいことがあるのよ。ちょっとでも外へ出ると、きっとだれかが、あたしをじっと見つめているような気がするの。歩けば、あとからついてくるのよ。で、不意にひょいと振り向いてやるんだけど、いつでも向こうのほうがすばやいらしいわ。パッとどこかへ隠れてしまうのよ」
美与子は、気味わるそうに、うしろを見た。
「それも気のせいかもしれないぜ。ぼくの場合と同じで、はっきりしたことは何もないじゃないか」
「だからこわいのよ。相手がはっきりわかってれば、速水さんに相談もできるんだけど。まるで幽霊みたいに正体を現わさないでしょう」
昌吉は、ふくしゅうの悪念に燃えた川波良斎の顔を思い出した。ヘビのようにサーッと音をたてて草むらを歩くという、あの男のことを思い出した。かれは立っていって、そっと窓のガラス戸を細めにひらき、前の往来を見おろした。
自転車に乗ったご用聞きらしい小僧が通っていった。アパートの隣家の娘が盛装をして、どっかへ出かけていくのが見えた。保険の勧誘員みたいな、カバンをさげたあぶらっこい顔つきの中年男が、てくてくと通りすぎた。自転車のうしろに大きな金網のかごをつけた郵便配達が、アパートの前で自転車を降り、かごの中からいくつかの小包郵便を取り出して、下の入り口に姿を消した。どこにもうろんな人影はなかった。電柱の陰にも、向こう側の路地の中にも、人の隠れている様子はなかった。
「怪しいやつはいないよ」
それが当然だという顔をして、もとの席にすわった。
「そうよ。あたしも、ときどき、そこからのぞいてみるんだけれど、怪しい人はいないわ。それでいて、外へ出ると、だれかがあたしをじっと見ているのよ」
もしかしたら、その怪しいやつは、アパートの外ではなくて、中にいるのではないか。こうしている今も、ドアの外の廊下で、じっと聞き耳を立てているのではないだろうか。ふと、そんなことを考えると、ゾーッと背中が寒くなった。
そのとき、コツコツと、ドアにノックが聞こえた。ちょうどそのドアのことを考えていたので、ふたりともギョッとして、おびえた目を見合わせたが、ドアがひらいて顔を出したのは、アパートの主人の奥さんだった。四十五、六のあいそうのよい奥さんが、ニコニコして、何か大きな小包をさし出した。
「これ、いま来ましたのよ」
さっきの郵便配達が置いていったのにちがいない。
昌吉が受けとって、美与子に渡した。薄べったい大きな箱だ。差し出し人は速水荘吉となっている。気ちがい良斎の大鎌からふたりを助けてくれたあの人物だ。包みを解くと、きれいなチョコレートの大箱が出てきた。ふたりが世を忍んで窮屈な思いをしているのを慰める意味で贈ってくれたのであろうか。それにしては、なんとなく唐突な贈り物であった。
昌吉はふたをとって、丸いチョコレートを一つつまんで、口へ持っていこうとした。
「あら、ちょっと……」
美与子がそれを止めるようなしぐさをしながら、妙にのどにつまったような声でいった。
「なぜ」と目できくと、
「気のせいでしょうか。なんだか変だわ。探偵小説のことを思い出したの。西洋の探偵小説に、毒入りチョコレートを贈って、人を殺す話があるでしょう。このあいだから、あんなことがつづいたんだから、気になるのよ。このチョコレート、あぶないと思うわ」
昌吉は笑いだした。
「ハハハハハ、きみはほんとうに、どうかしているよ。速水さんはぼくらを助けてくれた人じゃないか。その速水さんが、ぼくらを殺そうとするはずがないよ」
「だから、速水さんの名をかたって、あたしたちをゆだんさせようとしたのかもわからないわ」
「じゃあ、これを送ったのは速水さんじゃないというの?」
昌吉もしんけんな顔になった。
「速水さんに電話をかけて、たしかめてみるわ。それまで、たべないでね」
美与子は大急ぎで下の電話室へ降りていったが、しばらくすると、青ざめた顔でもどってきた。
「やっぱりそうだったわ。速水さん、送った覚えがないんですって。そして、アパートを変わるほうがいいっていってたわ。ぼくが別のアパートを捜してあげるって」
ふたりは、しばらく顔見合わせて、だまっていた。良斎の恐ろしい顔が、すぐ近くに漂っているような気がした。