海上の密談
影男は小説家佐川春泥として小説執筆のための風変わりな書斎を建築したばかりであった。影男は東京にも地方にも多くの家を持っていたが、世田谷区の蘆花公園の近くにも、樹木の多い広い地所と、隠居所ふうのささやかな日本建ての家があった。その庭の林の中に、十坪ほどの赤レンガの書斎を建てた。
とんがり帽子のようなスレートぶきの屋根もでき上がり、完成もまぢかに見えた。青々とした大樹にとりかこまれた奇妙な赤レンガの建物は、いかにもうつりがよくて、大昔の西洋の風景画を見るような感じだった。
影男の佐川春泥は、厚手の縞セビロに、十九世紀のフランスの詩人がつけていたように大型のリボンのような黒いちょうネクタイを、胸にフワフワとさせていた。
かれはでき上がった書斎の家具などをさも楽しそうに見まわったあとで、おもやの玄関前に置いてあった自動車を、自分で運転して、遠く隅田川の河口に向かった。
午後二時ごろ、霊岸島の魚仙という舟宿に着いた。座敷に通ると、そこに約束しておいた殺人会社専務の須原正が待っていた。ちょっと一口やってから、ボートを頼んだ。船頭を雇うのはぐあいがわるいし、ふたりとも和船はこげなかったので、ボートを借り出してもらったのだ。
影男は、殺人会社の仕事はもうごめんだと思っていたが、須原から執拗に呼び出しの手紙が来た。影男の本拠の一つであるアパートへ数回手紙が来て、るす中の机の上に積み上げてあった。
影男はある理由から、それに応じることにした。極秘の話だというので、電話で打ち合わせて、海の上で話し合うことにした。
小男の須原は、力がないので、影男のほうがオールをあやつって、ボートをお台場のほうに向けた。
「遠くへ行くこともない。このへんでいいでしょう」
影男はオールを横にして、こぐのをやめた。ボートは波のまにまに漂っている。天気がよく、風がないので、海は湖水のように静かだ。はるかに数隻のつり舟が見えるくらいのもので、かれらは広い海面にたったふたりぽっちだった。
「いつかは観覧車の空の上で密談しましたが、あれよりもこのほうがいっそう安全ですね。海上の密談とはいい思いつきだ」
小男の須原が、はればれとしたあたりを見まわしながら、ニヤニヤしていった。
「そのかわり、命のやりとりにも絶好の場所ですね。須原さん、あなた泳ぎができますか?」
影男の佐川春泥が、これもニヤニヤして、気味のわるいことをいいだした。
「できますとも、三里ぐらいは平気ですよ。あなたは?」
「青年時代に東京湾を横断したことがあります。すると、お互いに溺死させられる心配は、まずないわけですね?」
「次に凶器ですか?」
「そう。なにかお持ちですか」
「これを持ってますよ」
小男はそういって、ポケットから黒っぽい小型のピストルを出して、手のひらの上でひょいひょいと躍らせて見せた。そして、またニヤリとする。
「ウフフ、お互いに護身の道具は忘れませんねえ。実は、ぼくも持っているのですよ」
影男もポケットからそれを出して見せた。まったく同形のコルトである。
「ふふん、さすがですね。二五口径のコルトでしょう。すっかり同じだ。握りに馬のはねてる模様が浮き彫りになってますね。どれ、見せてごらんなさい」
お互いに取り替えっこをして、見比べたが、すっかり同じ型のピストルであることがわかった。
「というわけですな」
影男も笑い返した。
「そこで、凶器でも五分五分というわけですね」
「実に公平です。撃ち合えば、どちらが早く火を吹くかだが、すばやさではひけはとりませんよ」
「では、こんなものは、ポケットに収めておきましょう。きょうは決闘をやりに来たのではありませんからね」
ふたりはお互いのピストルを取り返して、もとのポケットに入れた。
「ところで、きょうは、また一つ、あなたの知恵が借りたいのですがね。このまえの『底なし沼』のトリックは実にすばらしかった。もう一度だけ、ああいうのを考えていただきたいのですよ」
小男の須原が、ごきげんとりのねこなで声でいった。