おまえが被害者だ
それから二日後の午後八時、須原は約束どおり、蘆花公園に近い影男の隠れ家をたずねた。影男はおもやの日本間のほうへ須原を上げて、ちゃぶ台の上に出してあったウイスキーを勧めた。玄関へも主人みずから出迎えた。いつまでたっても、女中も書生も現われない。うちじゅうがシーンと静まり返って、まるであき家にでもいるような感じだ。
「だれもいないのですか」
ついきいてみないではいられなかった。
「ぼくがここに滞在するときには、召し使いを連れてくるのですが、今夜はそういう者もいないほうがいいと思ったので、ぼくひとりでやって来て、きみを待っていたのですよ」
ふたりはウイスキーをチビチビやりながら、しばらく話したあとで、いよいよ庭のレンガ造りの書斎を検分することになった。
「このあいだのお話で、理屈はよくわかっているのだが、やっぱり実地に当たって見ておきませんとね」
小男の須原はそういって立ち上がった。
ふたりは懐中電灯を持って、まっくらな庭へ出ていった。林のような木立ちの中を歩いて、その奥にある奇妙なレンガ建てに近づいた。
それから三十分ほど、影男は建物の内外を歩きまわって、詳しく説明した。
「よくわかりましたよ。実にきばつなトリックだ。これならだいじょうぶです。きっとうまくやってみせますよ」
須原はいっさいを了解して、ほくほくしている。
検分をすませると、もう九時になっていた。ふたりはうっそうと茂った林の中を、おもやのほうへ引っ返しはじめた。あたり一帯は寂しい場所なので、街灯は遠くに立っているばかりだし、なんの光もなく、自動車の警笛も聞こえず、まるで山の中でも歩いているような気持ちだった。
「なんだか変だな。今まで、ぼくはそれを一度も聞いていない」
影男の佐川春泥が、何か思い出したようにつぶやくのが聞こえた。
「え、なんです。なんとおっしゃった?」
「その人は、いったい、どういう人物なんだね」
「その人って?」
「きみの会社が依頼されている人物、つまり殺される人物さ」
「ああ、そのことですか。わしもいうのを忘れてましたがね、実に恐ろしい相手です。悪知恵にかけては、まず天下無敵でしょうね。その男は、いくつも名まえを持ってましてね、まるで想像もつかないような別人に化けて、悪事を働いている。まあ悪質なゆすりですね。不正な金もうけがうまいこと驚くばかりです。それに、実にすばしっこくてね、まだ一度もつかまったことがないというやつです。あんた、そいつは小説家にさえ化けるんですよ」
小男の須原は、やみの中でクスクス笑った。
「なんだって? それじゃ、まるでぼくとそっくりじゃないか」
影男は、びっくりしたように立ち止まった。
「そういえば、なるほど、そっくりですね。不思議なこともあるもんだ」
「で、名まえはなんというんだ」
「いろんな名があるんですよ。速水荘吉、綿貫清二……それから佐川春泥……」
それを聞くと、影男がパッと飛びのいて身構えをした。
「それが、きみが殺そうとしている男か」
「そうですよ。こんどの事件の被害者というのは、おまえさんなのさ」
いうかと思うと、須原はポケットからピストルを出して構えていた。
「おいッ、おれを殺すと後悔するぞッ、恐ろしいことがおこるぞッ」
影男はじりじりとあとずさりしながら、しかりつけるように叫んだ。
「ワハハハ、おどかしたってだめだよ。おまえさん、自分が殺されるとも知らないで、おれに完全犯罪のやり方を教えてくれたじゃないか。おれのたくらみを、少しも気づかなかったじゃないか。なんの用意ができているものか。さあ、覚悟しろッ」
空気を裂くような鋭い音がしたかと思うと、影男のからだが、地上にどっと倒れていた。
須原はピストルを構えたまま、じっと見ていたが、影男は少しも動かない。一発で息が絶えたのであろうか。
須原は懐中電灯を点じて、死体に近づいていったが、電灯の丸い光があおむきに倒れた影男の顔を照らすと、思わず、「ウーッ」とうなって、あとずさりした。ピストルのたまは顔面に当たって、顔一面がどろどろした赤い液体でおおわれていたからだ。
しばらくためらっていたが、光を顔に当てないようにして、また近づいていった。そして、死体のそばにしゃがんで、胸に手を当ててみた。鼓動はとまっていた。念のために右の手くびをおさえてみたが、そこにも脈はまったくなかった。
「あっけないもんだなあ。さすがの悪党も、これでお陀仏か。ウフフフ、じゃあ、これからきみのおさしずに従って、絶対に処罰されない手段にとりかかることにするよ」
須原は死体はそのままにしておいて、おもやに引き返し、どこかへ電話をかけた。そして、勝手元から一枚のござを捜し出すと、それを持って、林の中へはいっていった。死体を動かすまでそれをかぶせて、おおい隠しておくためである。
それから十分ほどして、ひとりの男がおもやの玄関へはいってきた。殺人会社の重役のひとりが、近くに待機して、須原の電話を待っていたのだ。その男は四十ぐらいの、やせて背の高い男で、わざと労働者のような服装をしていた。
須原はその男を出迎えて、しばらくささやき合ったあとで、ふたりづれで、まっくらな庭の林の中へ消えていった。密室構成の仕事をはじめるためだ。それから、ふたりはレンガ建ての書斎のあたりで、夜明け近くまで、何かゴトゴトと、しきりに働いていた。