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影男-艳树之森(4)
日期:2022-02-16 18:20  点击:242


 耳をろうする歌声は、あるいは低く、あるいは高く、いつまでもつづいた。そのリズムに取りまかれ、リズムに身も浮き上がり、三人のからだが徐々に調子を合わせて動揺しはじめたのも無理ではなかった。
 ぴったり身についた黒ビロードのメフィストたちは、しなやかに手を振り、静かにステップを踏んで、歌うたう裸女どもの幹から幹へと、身ぶりおかしくめぐりはじめた。
 めぐりめぐれば、次々と笑いかける愛らしい目、におやかなくちびる。木の枝になぞらえてバレーのように高々とあげた裸女の足、裸女の手も、歌声に合わせて、ゆるやかに律動していた。その中を、踊りながらめぐり歩く黒ビロードのメフィストは、ゆらぐ裸女の手に触れ、足に触れ、肩をなで、乳ぶさをかすめ、はては、歌うたうくちびるにさえ触れるのであった。
「や、あれはなんだ?」
 須原のとんきょうな声に、指さす方をひと目見ると、さすがの影男も、アッと声をのんで、立ちすくんでしまった。
 妖異の森には、妖異のけだものがすんでいた。かなたの樹間に現われたのは、裸女の幹と同様、一見してはなんともえたいの知れぬ怪獣であった。
 前にも、横にも、うしろにも、美しい人間の顔がついていた。そして、十本の腕、十本の足、巨大な桃色の怪獣が、その十本の足をムカデのように動かして、こちらへ近づいてくるではないか。
 前後左右の五つの顔は、赤いくちびるで歌をうたい、十本の手はなよなよとそれに合わせて拍子をとり、十本の足も巧みにステップを踏んでいる。それは五人の裸女がからだを異様に組み合わせ、ねじり合わせて、一匹のなまめかしい巨獣となったものであった。
 洞窟(どうくつ)にはいってから二時間あまり、黒いメフィストは時を忘れ、追われている身を忘れ、地上のいっさいの煩いを忘れ、艶樹(えんじゅ)の森と、地底世界をどよもす音楽と、歌声と、踊り狂う五面十脚の美しい怪獣とに、果てしもなく酔いしれていたが、ふと気がつくと、またしても、ただならぬ奇怪事が起こっていた。
 八方の鏡に映る黒ビロードの人影が、刻一刻、その数を増していくかに感じられた。はじめのうちはだれも気づかなかったが、こうも人数がふえてきては、もう気づかぬわけにはいかぬ。影男がまず立ちどまり、つづいて須原が立ちどまった。
「これはどうしたことだ。おれの目が酔っぱらっているのか。それとも、またしても何か地底の魔術がはじまったのか」
「わしの目もどうかしている。鏡の影が倍になった。いや、三倍、四倍になった。見ろ、木の幹のすきまというすきまは黒い人間でいっぱいじゃないか。おかしいぞ。ほら、わしはいま手をあげた。だが、手をあげないやつがいっぱいいる。わしらの影じゃない。別の人間がはいってきたのか?」
 ふたりは手を上げ足を上げて、八方の鏡を見まわした。手足をあげている影は、全体のほんの一部分にすぎない。やっぱり、別の黒ビロードがはいってきたのだ。ひとりやふたりではない。五人、十人と、新まいの客がつめかけてきたのであろう。
 音楽も歌声も、少しもとぎれないでつづいていた。耳をろうする音響が、かれらの思考力を混迷させたのであろうか。
 いや、そうではない。鏡の影とは見えぬ実物の黒ビロードが、前から、うしろから、右から、左から、ふたりのほうへ近づいてくるのがはっきり認められた。その近づきかたが、ただごとではない。賊を包囲した警官隊が、包囲の輪をじりじりとせばめてくるあの感じであった。しかも、その包囲陣は少なくとも十人を下らないように見えた。
 ふたりはもう身動きができなかった。いまわしい予感がひしひしと迫ってきた。
 だが、音楽と歌声は最高潮に達していた。木々の裸女たちのゆらめきも、物狂わしくなっていた。ワーン、ワーンという響きに八方の鏡もゆらぎ、洞窟(どうくつ)そのものも揺れ動いているかと感じられた。
 その大音響が、一瞬にしてぴたりと止まった。裸女どもも、人形のように静止した。何かただならぬ鋭い物音が聞こえたからである。それは銃声であった。ピストルの音であった。そのあとのあまりの静けさに、耳鳴りだけがジーンと残っていた。
 ハッとして見まわすと、四方から迫った黒ビロードの人々の手に、ことごとくピストルが構えられていた。実物は七、八人だが、八方の鏡に映る何百何千人。そのおびただしい黒衣の人々が、百千の銃口をこちらに向けておびやかしているのだ。
「手を上げろ」
 まっさきに進んだひとりが、死の静寂を破ってどなった。
 影男も須原も、すなおに両手を高く上げた。妖異な環境と、みごとな不意討ちが、さしもの悪党どもを、いっせつな、無力にしてしまったのだ。
「殺人請負会社専務、須原正、通称影男、速水荘吉を逮捕する」
 それは警官の声であった。どうしてこの地底世界へ、警官がはいりこんできたのか。そんなことは不可能ではないか。だいいち、警察官がぴったり身についた黒ビロードのシャツなど着ているというのは、考えられないことだ。
「きみたちは、いったいだれです」
「ぼくは警視庁捜査一課第一係長の中村警部だ。逮捕状もちゃんと用意している」
 黒ビロードの人は、そういって、ふたりの前に一枚の紙片を差し出してみせた。一見して、正規の逮捕状であることがわかった。
 これはいったい、どうしたことだ。地底世界の経営者が内通したのだろうか。あのちょびひげが、友誼(ゆうぎ)にそむいて警察に知らせたのであろうか。そんなことはありえない。この地下装置による不当営利事業をその筋に知られたら、かれも重い処罰を受けるはずではないか。かれではない。かれが内通するはずはない。では、いったいだれのしわざか?
「おい、須原君、きみの部下の運転手はどこへ行ったのだ。その辺に見えないじゃないか」
 影男が恐ろしい顔で須原をにらみつけた。
「うん、わしもさっきから、それが気になっていたのだ。オーイ、斎木、斎木はいないか」
 その呼び声に、うしろのほうから黒衣の人々をおしわけて、運転手の斎木が顔を出した。そして、両手をさし上げているふたりのこっけいな姿を見ると、驚く様子もなく、ニッコリと笑って見せた。
「おふたりとも、もう年貢(ねんぐ)の納めどきですよ」
 腹心の部下と信じきっていた斎木が、思いもよらぬせりふを口にしたので、小男の須原は、アッとぎょうてんした。顔は紫色になり、まぶたから飛び出さんばかりの目で、食い入るように相手をにらみつけた。


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