肉体の雲
影男と須原の両人は、まっくらな岩穴の中を、しばらく行くと、パッと眼界がひらけた。そして、そこに恐ろしいけしきがあった。
両側には、切り立った黒い岩山が、無限の空にそびえていた。地球の中心にとどくかと思われるほどの、深い岩の裂けめであった。渓谷にはちがいない。だが、渓谷と呼ぶにはあまりに恐ろしいけしきだった。世界のいかなる渓谷にも、これほど異様にものすごい場所はないにちがいない。
ふたりの犯罪者は、岩の割れめの底の二匹のアリのように、そこにたたずんでいた。
両側の断崖は、その高さ何百メートルともしれなかった。そのはるかはるかの切れめに、夜の空があった。星が美しくまたたいていた。
「あれはほんとうの空だろうか。そして、ここは、そんなに深い地の底なのだろうか」
小男須原は、この壮絶な風景に接して、悪心を忘れ、貪欲を忘れ、ひたすら震えおののいているかに見えた。
「そんなはずはない。ぼくたちが夢を見ているのでなければ、ここはやっぱり洞窟の中なのだ。これもきっとパノラマふうの目くらましだよ。おそらく、天井に鏡が張りつめてあるのだ。それに映って、この谷の深さが倍に見えるのだ。いや、岩の作り方による錯覚で、何倍にも見えるのだ。星は豆電球かもしれない。それとも、鏡の面へどこかから投映しているのかもしれない」
影男は奇術師の性格を持っていたので、あくまで奇術ふうに解釈した。
ふたりはそこのくらやみにうずくまって、ぼうぜんとして、はるかの岩の裂けめを見上げていた。この不思議なけしきが、しばらく現実を忘れさせ、かれらを夢幻の境に誘った。私立探偵とか、警察官とかいうものは、なにかしら遠い昔の夢のように感じられた。
はるかの岩の裂けめが、徐々に明るくなっていた。またたく星が一つ一つ消えていった。そして、裂けめの空が、まず紫になり、エビ茶色になり、次にあざやかな朱色に染まった。夜が明けたのだ。朝日の光は断崖の上部までさしこみ、でこぼこの岩膚を、朱と紫のだんだらぞめにした。しかし、日の光は、この谷底までは届かなかった。はるかの上部を照らしているばかりであった。
朱色がだんだんあせていくと、空は真珠のような乳色に変わった。谷底までも、ほのかにしらんできた。そして、それが、いつ移るともなく、水色から濃紺に変じていって、一点の雲もない紺碧の空となった。
ほのかに風の渡る音が聞こえてきた。そして、その風に送られるように、裂けめの一方から、桃色がかった不思議な形の白い雲が現われ、静かに裂けめの上を流れていく。
「アッ、あれは雲じゃない。美しいはだかの女だ。数人の女たちが、手を組み、足を組んで、一団の白い雲となって、横ざまに流れているのだ」
「羽衣をぬいだ天女のむれだ。女神の一団が天空を漂っているのだ」
女人の雲は、漂いながら、たちまちにしてその色彩を変えていった。桃色となり、オレンジとなり、草色となり、紫となり、青となり、赤となり、あるいは半面は緑、半面は臙脂の異様な色彩となり、虹の五色に変化した。
その女人雲は、動くと見えて動かなかった。いつまでも岩の裂けめの、はるかの空に漂っていた。
「何か巧みなくふうで、下から見えぬように、ロープかなんかでつっているのだな」
影男はちらっと現実的なことを考えた。