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阴兽(十一)
日期:2022-04-10 23:39  点击:308

十一


 そんなことで、いつも私の方から出す媾曳(あいびき)の打合せの手紙が、三日ばかり途切れたものだから、待切れなくなったものか、静子から明日(あす)の午後三時頃、きっと例の隠れがへ来てくれる様にとの速達が来た。それには「私という女の、余りにもみだらな正体を知って、あなたはもう私がいやになったのではありませんか、私が怖くなったのではありませんか」と(えん)じてあった。
 私はこの手紙を受取っても、妙に気が進まなんだ。彼女の顔を見るのがいやで仕様がなかった。だが、それにも拘らず、私は彼女の指定して来た時間に、御行(おぎょう)の松の下の、あの化物屋敷へ出向いて行った。
 それはもう六月に入っていたが、梅雨の前のそこひの様に憂欝な空が、押しつける様に頭の上に垂れ下って、気違いみたいにむしむしと暑い日だった。電車をおりて、三四丁歩く間に、脇の下や背筋などが、ジクジクと汗ばんで、触って見ると富士絹のワイシャツが、ネットリと湿っていた。
 静子は、私よりも一足先に来て、(すず)しい土蔵の中のベッドに腰かけて待っていた。土蔵の二階には絨氈(じゅうたん)を敷きつめ、ベッドや長椅子を置き、幾つも大型の鏡を並べなどして、私達は遊戯の舞台を出来る丈け効果的に飾り立てたのだが、静子は私が止めるのも聞かず、絨氈にしろ、ベッドにしろ、出来合(できあい)ではあったけれど、馬鹿馬鹿しく高価な品を、惜し気もなく買入れた。
 静子は、派手な結城紬(ゆうきつむぎ)一重物(ひとえもの)に、(きり)の落葉の刺繍(ししゅう)を置いた黒繻子(くろじゅず)[#ルビの「くろじゅず」はママ]の帯をしめて、例によって艶々とした丸髷のつむりをふせ、ベッドの純白のシーツの上に、フーワリと腰をおろしていたが、洋風の調度と、江戸好みな彼女の姿とが、ましてその場所が薄暗い土蔵の二階なので、甚しく異様な対照を見せていた。私は、夫をなくしても変えようともしない、彼女の好きな丸髷の匂やかに艶々しく輝いているのを見ると、直ぐ様、その髷がガックリとして、前髪がひしゃげた様に乱れて、ネットリしたおくれ毛が、首筋の(あたり)にまきついている、あのみだらがましき姿を目に浮べないではいられなかった。彼女はその隠家(かくれが)から帰る時には、乱れた髪をときつけるのに、鏡の前で三十分も費すのが常であったから。
「この間、灰汁洗い屋のことを、態々聞きに戻っていらしったのは、どうしたんですの。あなたの慌て様ったらなかったのね。あたし、どういう訳だかと、考えて見たんですけど、分りませんのよ」
 私が入って行くと、静子は直ぐそんなことを聞いた。
「分らない? あなたには」私は洋服の上衣(うわぎ)を脱ぎながら答えた「大変なことなんだよ。僕は大間違いをやっていたのさ。天井を洗ったのが十二月の末で、小山田さんの手袋の釦のとれたのがそれより一月以上も前なんですよ。だって、あの運転手に手袋をやったのが十一月の二十八日だって云うから、釦のとれたのはその以前にきまっているんだからね。順序がまるであべこべなんですよ」
「まあ」と静子は非常に驚いた様子であったが、まだはっきりとは事情がのみ込めぬらしく「でも、天井裏へ落ちたのは、釦がとれたよりはあとなんでしょう」
「あとにはあとだけれど、その間の時間が問題なんだよ。つまり釦は小山田さんが天井裏へ上った時、その場でとれたんでなければ、変だからね。正確に云えば成る程あとだけれど、とれると同時に天井裏へ落ちて、そのままそこに残されていたのだからね。それがとれてから、落ちるまでの間に一月以上もかかるなんて、物理学の法則では説明出来ないじゃないか」
「そうね」彼女は少し青ざめて、まだ考え込んでいた。
「とれた釦が、小山田さんの服のポケットにでも入っていて、それが一月のちに偶然天井裏へ落ちたとすれば、説明がつかぬことはないけれど、それにしても、小山田さんは去年の十一月に着ていた服で、春を越したのかい」
「いいえ。あの人おしゃれさんだから、年末には、ずっと厚手の温かい服に替えていましたわ」
「それごらんなさい。だから、変でしょう」
「じゃあ」と彼女は息を引いて「やっぱり、平田が……」と云いかけて、口をつぐんだ。
「そうだよ。この事件には、大江春泥の体臭が余り強過ぎるんだよ。で、僕はこの間の意見書をまるで訂正しなければならなくなった」
 私はそれから前章に記した通り、この事件が大江春泥の傑作集の如きものであること、証拠の揃いすぎていたこと、偽筆が余りにも真に迫っていたことなどを、彼女の為に簡単に説明した。
「あなたは、よく知らないだろうが、春泥の生活と云うものが、実に変なんだ。彼奴(あいつ)は、なぜ訪問者に逢わなかったか、なぜあんなにも度々転居したり、旅行をしたり、病気になったりして、訪問者を避けようとしたか、おしまいには、向島須崎町の家を、無駄な費用をかけて、なぜ借りっぱなしにして置いたか、いくら人(ぎら)いの小説家にもしろ、あんまり変じゃないか。人殺しでもやる準備行為でなかったとしたら、あんまり変じゃないか」
 私は静子の隣りにベッドに腰をおろして話していたのだが、彼女は、やっぱり春泥の仕業であったかと思うと、俄かに怖くなった様子で、ぴったりと私の方へ身体をすり寄せて、私の左の手首を、むず(がゆ)く握りしめるのであった。
「考えて見ると、私はまるで彼奴の傀儡(かいらい)にされた様なものだね。彼奴の予め拵えて置いた偽証を、そのまま、彼奴の推理を御手本にして、おさらいさせられたも同然なんだよ。アハハハ……」私は自から(あざけ)る様に笑った。「あいつは恐ろしい奴ですよ。僕の物の考え方をちゃんと呑込んでいて、その通りに証拠を拵え上げたんだからね。普通の探偵やなんかでは駄目なんだ。僕の様な、推理好みの小説家でなくては、こんな廻りくどい突飛な想像が出来るものではないのだから。だが、若し犯人が春泥だとすると、色々無理が出来て来る。その無理が出来て来る所が、この事件の難解な所以(ゆえん)で、春泥が底の知れない悪者だという訳だけれどね。無理というのはね、せんじつめると、二つの事柄なんだが、一つは例の脅迫状が小山田さんの死後パッタリ来なくなったこと、もう一つは、日記帳だとか春泥の著書、「新青年」なんかが、どうして小山田さんの本棚に入っていたかということです。この二つ丈けは、春泥が犯人だとすると、どうも辻褄が合わなくなるんだよ。仮令日記帳の例の欄外の文句は、小山田さんの筆癖(ふでくせ)を真似て書込めるにしたところが、又新青年の口絵の鉛筆のあとなんかも、偽証を揃える為にあいつが作って置いたとしたところが、どうにも無理なのは、小山田さんしか持っていない、あの本棚の鍵を、春泥がどうして手に入れたかということだよ。そして、あの書斎へ忍び込めたかということだよ。私はこの三日の間、その点を頭の痛くなる程考え抜いたのだがね。その結果、どうやら、たった一つの解決法を見つけた様に思うのだけれど。
 僕はさっきも云った様に、この事件に春泥の作品の匂いが充ち満ちていることから、彼奴の小説をもっとよく研究して見たら、何か解決の鍵が掴めやしないかと思って、あいつの著書を出して読んで見たんだよ。それにはね、あなたにはまだ云ってないけれど、博文館の本田という男の話によると、春泥がとんがり帽に道化服という変な姿で、浅草公園にうろついていたというんだ。しかも、それが広告屋で聞いて見ると、公園の浮浪人だったとしか考えられないんだ。春泥が浅草公園の浮浪人の中に混っていたなんて、まるでスチブンソンの『ジーキル博士とハイド』みたいじゃないか。僕はそこへ気づいて、春泥の著書の中から、似た様なのを探して見ると、あなたも知って居るでしょう、あいつが行衛不明になるすぐ前に書いた『パノラマ国』という長篇と、それよりは前の作の『一人二役』という短篇と、二つもあるのです。それを読むと、あいつが『ジーキル博士』式なやり方に、どんなに魅力を感じていたか、よく分るのだ。つまり、一人でいながら、二人の人物にばけることにね」
「あたし怖いわ」静子はしっかり私の手を握りしめて云った「あなたの話し方、気味が悪いのね。もうよしましょうよ、そんな話。こんな薄暗い蔵の中じゃいやですわ。その話はあとにして、今日は遊びましょうよ。あたし、あなたとこうしていれば、平田のことなんか、思出しもしないのですもの」
「まあ御聞きなさい。あなたにとっては、命にかかわる事なんだよ。もし春泥がまだあなたをつけねらっているとしたら」私は恋の遊戯どころではなかった。「僕はまた、この事件の内から、ある不思議な一致を二つ丈け発見した。学者臭い云い方をすれば、一つは空間的な一致で、一つは時間的な一致なんだけれど、ここに東京の地図がある」私はポケットから用意して来た簡単な東京地図を取出して、指で()し示しながら「僕は大江春泥の転々として移り歩いた住所を、本田と象潟署の署長から聞いて覚えているが、それは、池袋、牛込喜久井町、根岸、谷中初音町、日暮里金杉、神田末広町(かんだすえひろちょう)、上野桜木町、本所柳島町、向島須崎町と、大体こんな風だった。この内池袋と、牛込喜久井町丈けは大変離れているけれど、あとの七ヶ所は、こうして地図の上で見ると、東京の東北の隅の狭い地域に集っている。これは春泥の大変な失策だったのですよ。池袋と牛込が離れているのは、春泥の文名が上って、訪問記者などがおしかけ始めたのは、根岸時代からだという事実を考え合わせると、よくその意味が分る。つまりあいつは喜久井町時代までは、凡て原稿の用事を手紙丈けで済ませていたのだからね。ところで、根岸以下の七ヶ所を、こうして線でつないで見ると、不規則な円周を描いていることが分るが、その円の中心を求めたならば、そこにこの事件解決の鍵が隠れているのだよ。何故そうだかということは、今説明するけれど」
 その時、静子は何を思ったのか、私の手を離して、いきなり両手を私の首にまきつけると、例のモナリザの唇から、白い八重歯を出して「怖い」と叫びながら、彼女の頬を私の頬に、彼女の唇を私の唇に、しっかりとくっつけてしまった。やや暫くそうしていたが、唇を離すと、今度は私の耳を人指し指で、巧みにくすぐりながら、そこへ口を近づけて、まるで子守歌の様な甘い調子で、ボソボソと囁くのだった。
「あたし、そんな怖い話で、大切な時間を消してしまうのが、惜しくてたまらないのですわ。あなた、あなた、私のこの火の様な唇が分りませんの、この胸の鼓動(こどう)が聞えませんの。サア、あたしを抱いて。ね、あたしを抱いて」
「もう少しだ。もう少しだから辛抱して僕の考えを聞いて下さい。その上で、今日はあなたとよく相談しようと思って来たのだから」私は構わず話し続けて行った「それから時間的の一致というのはね。春泥の名前がパッタリ雑誌に見えなくなったのは、私はよく覚えているが、おととしの暮からなんだ。それとね、小山田さんが外国から帰朝した時と――あなたはそれがやっぱり、おととしの暮だって云ったでしょう。この二つがどうして、こんなにぴったり一致しているのかしら。これが偶然だろうかね。あなたはどう思う?」
 私がそれを云い切らぬ内に、静子は部屋の隅から例の外国製乗馬鞭を持って来て、無理に私の右手に握らせると、いきなり着物を脱いで、うつむきにベッドの上に倒れ、むき出しのなめらかな肩の下から、顔丈けを私の方にふりむけて、
「それがどうしたの、そんなこと、そんなこと」と何か訳の分らぬことを、気違いみたいに口走ったが「サア、ぶって! ぶって!」と叫びながら、上半身を波の様にうねらせるのであった。
 小さな蔵の窓から、鼠色の空が見えていた。電車の響きであろうか、遠くの方から雷鳴の様なものが、私自身の耳鳴りに混って、オドロオドロと聞えて来た。それは丁度、空から、魔物の軍勢が押しよせて来る、陣太鼓の様に、気味悪く思われた。恐らくあの天候と、土蔵の中の異様な空気が、私達二人を気違いにしたのではなかったか。静子も私も、あとになって考えて見ると、正気の沙汰(さた)ではなかったのだ。私はそこに横わってもがいている彼女の汗ばんだ青白い全身を眺めながら、執拗(しつよう)にも私の推理を続けて行った。
「一方ではこの事件の中に大江春泥がいることは、火の様に明かな事実なんだ。だが、一方では、日本の警察力がまる二ヶ月かかっても、あの有名な小説家を探し出すことが出来ず、彼奴(あいつ)(けむ)みたいに完全に消去(きえさ)ってしまったのだ。アア、僕はそれを考えるさえ恐ろしい。こんなことが悪夢でないのが不思議な位だ。何故彼は小山田静子を殺そうとはしないのだ。ふっつりと脅迫状を書かなくなってしまったのだ。彼奴はどんな忍術で小山田さんの書斎へ入ることが出来たんだ。そして、あの錠前つきの本棚をあけることが出来たんだ。……僕はある人物を思出さないではいられなかった。外でもない、女流探偵小説家平山日出子だ。世間ではあれを女だと思っている。作家や記者仲間でも、女だと信じている人が多い。日出子の(うち)へは毎日の様に愛読者の青年からのラヴレターが舞込むそうだ。ところが本当は彼は男なんだよ。しかもれっきとした政府の御役人なんだよ。探偵作家なんて、みんな、僕にしろ、春泥にしろ、平山日出子にしろ、怪物なんだ。男でいて女に化けて見たり、女でいて男に化けて見たり、猟奇の趣味が(こう)じると、そんな所まで行ってしまうのだ。ある作家は、夜女装をし、浅草をぶらついた。そして、男と恋の真似事さえやった」
 私はもう夢中になって、気違いの様に喋りつづけた。顔中に一杯汗が浮んで、それが気味悪く口の中へ流れ込んだ。
「サア、静子さん。よく聞いて下さい。僕の推理が間違っているかいないか。春泥の住所をつないだ円の中心はどこだ。この地図を見て下さい。あなたの家だ。浅草山の宿だ。皆あなたの(うち)から自動車で十分以内のところばかりだ。……小山田さんの帰朝と一緒に、何故春泥は姿を隠したのだ。もう茶の湯と音楽の稽古に通えなくなったからだ。分りますか。あなたは小山田さんの留守中、毎日午後から()()るまで、茶の湯と音楽の稽古に通ったのです。……ちゃんとお膳立(ぜんだ)てをして置いて、僕にあんな推理を立てさせたのは誰だった。あなたですよ、僕を博物館で捕えて、それから自由自在にあやつったのは。……あなたなれば、日記帳に勝手な文句を書き加えることだって、その外の証拠品を小山田さんの本棚へ入れることだって、天井へ釦を落して置くことだって、自由に出来るのです。僕はここまで考えたのです。外に考え様がありますか。さあ、返事をして下さい。返事をして下さい」
「あんまりです。あんまりです」裸体の静子が、ワッと悲鳴を上げて、私にとりすがって来た。そして、私のワイシャツの上に顔をつけて、熱い涙が私の肌に感じられた程も、さめざめと泣き()るのだった。
「あなたは何故泣くのです。さっきから何故僕の推理を止めさせようとしたのです。当り前なればあなたには命がけの問題なのだから、聞きたがる筈じゃありませんか。これ丈けでも、僕はあなたを疑わないではいられぬのだ。御聞きなさい。まだ僕の推理はおしまいじゃないのだ。大江春泥の細君は何故眼鏡をかけていた、金歯をはめていた、歯痛止めの貼り薬をしていた、洋髪に結って丸顔に見せていた。あれは春泥の『パノラマ国』の変装法そっくりじゃありませんか。春泥はあの小説の(うち)で、日本人の変装の極意(ごくい)を説いている。髪形(かみかたち)を変えること、眼鏡をかけること、含み綿をすること、それから又、『一銭銅貨』の中では、丈夫な歯の上に、夜店の鍍金(めっき)の金歯をはめる思いつきが書いてある。あなたは人目につき易い八重歯を持っている。それを隠す為に鍍金の金歯をかぶせたのだ。あなたの右の頬には大きな黒子(ほくろ)がある。それを隠す為にあなたは歯痛止めの貼り薬をしたのだ。洋髪に結って瓜実顔を丸顔に見せる位なんでもないことだ。そうしてあなたは春泥の細君に化けたのだ。僕はおととい本田にあなたを隙見させて春泥の細君と似ていないかを確めた。本田はあなたの丸髷を洋髪に換え、眼鏡をかけ、金歯を入れさせたら、春泥の細君にそっくりだと云ったじゃありませんか。サア、云っておしまいなさい。すっかり分ってしまったのだ。これでもあなたは、まだ僕をごまかそうとするのですか」
 私は静子をつき離した。彼女はグッタリとベッドの上に倒れかかり、激しく泣入って、いつまで待っても答えようとはしない。私はすっかり興奮してしまって、思わず手にしていた乗馬鞭をふるって、ピシリと彼女のはだかの背中へ叩きつけた。私は夢中になって、これでもか、これでもかと、幾つも幾つもうち続けた。見る見る、彼女の青白い皮膚は赤味走って、やがて蚯蚓の這った形に、真赤な血がにじんで来た。彼女は私の鞭の下に、いつもするのと同じみだらな恰好で、手足をもがき、身をくねらせた。そして、絶入(たえい)るばかりの息の下から、「平田、平田」と細い声で口走った。
「平田? アア、あなたはまだ私をごまかそうとするんだな。あなたが春泥の細君に化けていたなら、春泥という人物は別にある筈だとでも云うのですか。春泥なんているものか。あれは全く架空の人物なんだ。それをごまかす為に、あなたは彼の細君に化けて雑誌記者なんかに逢っていたのだ。そして、あんなにも度々住所を変えたのだ。併しある人には、まるで架空の人物ではごまかせないものだから、浅草公園の浮浪人を傭って、座敷に寝かして置いたんだ。春泥が道化服の男に化けたのではなくて、道化服の男が春泥に化けていたんだ」
 静子はベッドの上で、死んだ様になって、黙り込んでいた。ただ、彼女の背中の赤蚯蚓丈けが、まるで生きているかの様に、彼女の呼吸につれて(うごめ)いていた。彼女が黙ってしまったので、私もいくらか興奮がさめて行った。
「静子さん。僕はこんなにひどくする積りではなかった。もっと静かに話してもよかったのだ。だが、あなたが、あんまり私の話を避けよう避けようとするものだから、そしてあんな嬌態(きょうたい)でごまかそうとするものだから、僕もつい興奮してしまったのですよ。勘弁(かんべん)して下さいね。ではね、あなたは口を利かなくてもいい。僕があなたのやって来たことを、順序をたてて云って見ますからね。若し間違っていたら、そうではないと、一言云って下さいね」
 そうして、私は私の推理を、よく分る様に話し聞かせたのである。
「あなたは女にしては珍らしい理智と文才に恵まれていた。それは、あなたが私にくれた手紙を読んだ丈けでも、充分分るのです。そのあなたが、匿名(とくめい)でしかも男名前で、探偵小説を書いて見る気になったのは、ちっとも無理ではありません。だが、その小説が意外に好評を博した。そして、丁度あなたが有名になりかけた時分に、小山田さんが、二年間も外国へ行くことになった。その淋しさを慰める為、()つはあなたの猟奇癖を満足させる為、あなたはふと一(にん)三役という恐ろしいトリックを思いついた。あなたは『一人二役』という小説を書いているが、その上を行って、一人三役というすばらしいことを思いついたのです。あなたは平田一郎の名前で、根岸に家を借りた。その前の池袋と牛込とはただ手紙の受取場所を造って置いた丈けでしょう。そして、厭人病や旅行などで、平田という男性を世間の目から隠して置いて、あなたが変装をして平田夫人に化け平田に代って原稿の話まで一切(いっさい)切り廻していたのです。つまり原稿を書く時には大江春泥の平田になり、雑誌記者に逢ったり、(うち)を借りたりする時には、平田夫人になり、山の宿の小山田家では、小山田夫人になりすましていたのです。つまり一人三役なのです。その為に、あなたは殆ど毎日の様に午後一杯、茶の湯や音楽を習うのだと云って、家をあけなければならなかった。半日は小山田夫人、半日は平田夫人と、一つ身体を使い分けていたのです。それには髪も結い変える必要があり、着物を着換えたり変装をしたりする時間が要るので、余り遠方では困るのです。そこで、あなたは住所を変える時、山の宿を中心に、自動車で十分位の所ばかり選んだ訳ですよ。僕は同じ猟奇の徒なんだから、あなたの心持がよく分ります。随分苦労な仕事ではあるけれど、世の中に、こんなにも魅力のある遊戯は、恐らく外にはないでしょうからね。僕は思い当ることがありますよ。いつかある批評家が春泥の作を評して、女でなければ持っていない不愉快な程の猜疑心に充ち満ちている。まるで暗闇に蠢く陰獣の様だと云ったのを思い出しますよ。あの批評家は本当のことを云っていたのですね。
 その内に、短い二年が過去(すぎさ)って、小山田さんが帰って来た。もうあなたは元の様に一人二役を勤めることは出来ない。そこで大江春泥の行方不明ということになったのです。でも、春泥が極端な厭人病者だということを知っている世間は、その不自然な行方不明をさして疑わなかった。だが、あなたがどうしてあんな恐ろしい罪を犯す気になったか、その心持は男の僕にはよく分らないけれど、変態心理学の書物を読むと、ヒステリィ性の婦人は、屡々自分で自分に当てて脅迫状を書き送るものだそうです。日本にも外国にもそんな実例は沢山あります。つまり、自分でも怖がり、他人にも気の毒がって貰い度い心持なんですね。あなたもきっとそれなんだと思います。自分が化けていた、有名な男性の小説家から、脅迫状を受取る。何というすばらしい魅力でしょう。
 同時にあなたは年をとったあなたの夫に不満を感じて来た。そして、夫の不在中に経験した変態的な自由の生活に止み難いあこがれを抱く様になった。いや、もっと突込んで云えば、嘗つてあなたが春泥の小説の中に書いた通り、犯罪そのものに、殺人そのものに、云い知れぬ魅力を感じたのだ。それには丁度春泥という完全に行方不明になった架空の人物がある。この者に嫌疑をかけて置いたならば、あなたは永久に安全でいることが出来た上、いやな夫には別れ、莫大な遺産を受継いで、半生を勝手気ままに振舞うことが出来る。
 だが、あなたはそれ丈けでは満足しなかった。万全を期する為二重の予防線を張ることを考えついた。そして、(えら)み出されたのが僕なんです。あなたはいつも春泥の作品を非難する僕をまんまと傀儡に使って、(かたき)うちをしてやろうと思ったのでしょう。だから僕があの意見書を見せた時には、あなたはどんなにか、おかしかったことでしょうね。僕をごまかすのは、造作もなかったですね。手袋の飾釦、日記帳、新青年、「屋根裏の遊戯」それで充分だったのですからね。だが、あなたがいつも小説に書いている様に、犯罪者というものは、どこかにほんのつまらないしくじりを残して置くものですね。あなたは小山田さんの手袋からとれた釦を拾って、大切な証拠品に使ったけれど、それがいつとれたかをよく検べて見なかった。その手袋がとっくの昔運転手に与えられたことを少しも知らずにいたのです。何というつまらないしくじりだったでしょう。小山田さんの致命傷はやっぱり僕の前の推察の通りだと思います。ただ違うのは、小山田さんが窓の外からのぞいたのではなくて、多分はあなたと情痴の遊戯中に(だからあの鬘をかぶっていたのでしょう)あなたが窓の中からつきおとしたのです。
 サア、静子さん。僕の推理が間違っていましたか。何とか返事をして下さい。出来るなら僕の推理を打破って下さい。ねえ、静子さん」
 私はグッタリしている静子の肩に手をかけて、軽く(ゆすぶ)った。だが、彼女は恥と後悔の為に顔を上げることが出来なかったのか、身動きもせず、一(ごん)も物を云わなかった。
 私は云い度い丈け云ってしまうと、ガッカリして、その場に茫然(ぼうぜん)と立ちつくしていた。私の前には、昨日まで私の無二の恋人であった女が、(きずつ)ける陰獣の正体をあらわにして、倒れている。それをじっと眺めていると、いつか私の眼は熱くなった。
「では僕はこれで帰ります」私は気を取直して云った。「あなたは、あとでよく考えて下さい。そして、正しい道を選んで下さい。僕はこの一月ばかりの間、あなたのお蔭で、まだ経験しなかった、情痴の世界を見ることが出来ました。そして、それを思うと今でも僕は、あなたと離れ難い気がするのです。併し、このままあなたとの関係を続けて行くことは僕の良心が許しません。僕は道徳的に人一倍敏感な男なのです。……では左様(さよう)なら」
 私は静子の背中の蚯蚓脹れの上に、心をこめた接吻を残して、暫くの間彼女との情痴の舞台であった、私達の化物屋敷をあとにした。空は愈々低く、気温は一層高まって来た様に思われた。私は身体中無気味な汗にしたりながら、その(くせ)歯と歯をカチカチ云わせて、気違いの様にフラフラと歩いて行った。


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