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江川兰子-杂技演员
日期:2022-04-10 23:39  点击:375

軽業師


 アパート支配人江川作平(さくへい)氏とその老妻お(こま)さんは、家賃の取立などは随分きびしく、因業者(いんごうもの)の様に云われていたが、二人とも実は仲々の仏性(ほとけしょう)で、みなし児蘭子を、悪人の子であるが故に一層不憫(ふびん)がって、本当の娘の様にいつくしみ育てた。蘭子が江川姓を名乗り始めたのはこの時からであるが、それが一生涯の姓となったのだから、作者は便宜上最初から江川蘭子と呼んで置いたのである。
 引取ると早々、お駒婆さんは、二歳のラン子の奇異なる性質に驚かされた。
「あんまり駄々をこねるもんですからね。わたしついあの子の頬をぶったのですよ。すると、今まで泣いていたのが、ケロリと機嫌が直って、キャッキャッ笑い出すじゃありませんか。本当に恐い様な、妙な児ですわ」
 変なことだけれど、それは事実であった。お駒さんは蘭子をあやす(すべ)会得(えとく)した。膝の上でゆすったり、おんぶしたり、子守唄をうたったり、それらの世間並の方法は、(すべ)て無効であった。のみならず、寧ろこの小怪物を不機嫌にさえした。子守唄の代りに、びっくりする様な騒音が、愛撫(あいぶ)の代りに打擲(ちょうちゃく)が有効であった。騒音では、台所で皿と皿とのぶつかる音、殊にそれが床に落ちて破れる音が、ラン子を楽しませた。ある時、アパートの前で、自動車のタイアが破れて、鉄砲みたいな音を立てたが、それを耳にするといきなり笑い出した蘭子の御機嫌というものはなかった。
 又ある時、アパートの裏口の(わき)を這い廻っていて、三段ばかりの石段を転がり落ちたことがある。無論火のついた様に泣き出すものと、驚いてかけ寄ったお駒さんは、蘭子の顔を見てあっけにとられてしまった。
 彼女は石段の下に仰向きに転がったまま、生え始めた可愛い前歯を出して、睫毛(まつげ)の長い美しい目をうっとりさせて、(しん)から嬉し相に笑っていたのだ。
 その笑顔のあどけなさ。
「母ちゃんはね、お前をたべてしまいたいよ」
 お駒婆さんは、たまらなくなって、いきなり蘭子を抱き上げて、頬ずりをしないではいられなかった程だ。
 だが、この異常な性質を別にすれば、智慧(ちえ)もたくましく、身体もすこやかに、彼女はグングン生長して行った。殊にその美貌は父母の美しい部分丈けを遺伝して、年と共に愈々(いよいよ)魅力を増し、彼女を一目見た者は、「マア可愛い」と口に出して云わないではいられぬ程であった。
「この子はどこまで美しく、愛らしくなって行くのだろう。恐い様だ」
 江川夫妻の話題はその外にはなかった。彼等は愚かにも、十八歳の蘭子が盛装してお嫁入りする姿を妄想していたのである。
 小学校では、彼女は校中第一の優等生であった。中にも数学と唱歌と舞踏と体操では、先生は百点以上の点数がないのに困らなければならなかった。
 機械体操は、どんな男生よりも上手だったし、プールでのダイヴィングは、学校中の先生も生徒も、それに見とれる為に集って来る程、見事であった。
 美貌は無論校中第一であった。先生も生徒も、男という男が彼女を恋していた。そして、蘭子は、たった一人で、何百人の恋人達に、まんべんなく愛嬌をふりまく才能を備えていた。
 卒業間際の十四歳の時、二度変なことがあった。一度は先生と四五人の同級生とで国技館へ菊見に行った帰りがけ、着物を着たまま両国橋(りょうごくばし)の上から隅田川(すみだがわ)へ飛込んだのと、もう一度は、ある百貨店の屋上から飛降りようとして、居合せた刑事に帯を掴まれて果さなかったのとである。
 無論、彼女は自殺を考えた訳ではなかった。赤ちゃんの時分石段を転がり落ちて笑ったのや、ダイヴィングがひどく好きなのと同じ、妙なやむにやまれぬ衝動からであった。
 つまり、彼女は寧ろ本能的に、危険を、死と紙一重の離れ業を愛好した。彼女にとって、僅か十四歳の小娘の癖に、この世に楽しみといっては、ただこの「危険」の外には何もなかった。高い建物に昇ったり、深い川を覗き込んだりすると、ゾクゾク総毛立つ程、不思議な夢みたいな快感を覚えて、つい飛込んで見たくなるのだ。
 小学校を卒業すると、江川夫妻は彼女をしつけのきびしいので聞えた私立女学校へ入学させようとした。だが、蘭子は、単調な学校生活には飽き飽きしていた。といって、女飛行家を志願して見たところで許される筈もなく、入学資格や費用の点で面倒があった。そこで、彼女はそんな面倒もなく、彼女にとって最も好ましい職業を選んだ。ある日無断家出をして、郊外にかかっていた(むすめ)曲馬団に身を投じたのだ。そこには入学資格も、学費も、親の許しさえも不必要であったから。
 曲馬団の親方は、ラン子の美貌を見て、即座に彼女をかくまう事を承諾した。軽業(かるわざ)などはどうでもよかったのだが、ラン子の方で、是非やらせてくれと云うものだから、客の帰ったあとで、空中のブランコに昇らせて見た。
 すると彼女は、二三度空中からもんどり打って、網の上に落ち落ちしたあとではあったが、一日で、数丈の空のブランコからブランコへと飛び移る軽業を習い覚えてしまった。
 次の土地の興行から、ラン子は軽業の太夫(たいふ)として客にまみえた。そして(またた)く間に、座中第一の人気者になってしまった。彼女は空中に(おい)て、どんな先輩よりも大胆不敵であった。しまいには、下の救命網をとりのけてくれとさえ云い出した程だ。
 江川氏夫妻は、云うまでもなく、血眼(ちまなこ)になって娘の行方を探していたが、どういう訳かいつまでも知れずにいた。
 ラン子は旅から旅への興行の間に、十六歳の春を迎えた。早熟な彼女は、身体こそ少年の様にしなやかであったが、睫毛の長い二かわの目には、已に大人の(こび)(うるお)いをたたえていた。
 彼女にとって、空中の離れ業などは、最早何の危険をも、随って魅力をも感じない日常茶飯事になってしまっていた。
 ある日、ラン子の朋輩(ほうばい)の娘が、高い竹竿の上から墜落即死した事件があった。
 十一歳のその娘は、投げつけた(もち)の様に、地面に平べったくなって動かなかった。真青な顔にベットリ汗をにじませた座員達が、そのまわりを取巻いた。客席に悲鳴やののしり声が起った。
 娘の首を持上げると、顔と地面との間に真赤な糸が続いた。彼女はひどく血を吐いていたのだ。地面には赤い水溜りが出来ていた。
 ラン子はその血を見て、二年前、両国橋や百貨店の屋上から遙かの下を覗いた時と、非常によく似た、一種の戦慄を感じた。恐ろしくもあった。が同時に、娘の死体と流れる血のりに、ワクワクと総毛立つ程の魅力を覚えたのだ。いや、それ丈けではない。彼女が赤ちゃんの時分、両親の死体の間で、血潮の池をベタベタ叩きながら、キャッキャッと笑い興じた、あの奇異なる印象が、無意識の底に残っていて、今この酷似(こくじ)せる光景に出会い、不思議な胸騒ぎを感じたのであったかも知れぬ。
 だが、大人と云っても十六歳のラン子は、まだ犯罪、殺人の魅力に思い至る程、成熟してはいなかった。それがどんなに毒々しくも快い刺戟であるかをさえ、ハッキリは意識しなかった。彼女はただ「人の血って、どうしてあんなに美しいのかしら」と考えながら、うっとりと即死少女の青白い死体を眺めているばかりだった。
 又、幼時の両親の変死についても、江川夫妻が秘し隠していたので、彼女は悪夢にうなされた時には、きっと耳にする、あのすさまじい断末魔のうめき声さえも、それが何を意味するのか、よく分らないでいた程だ。随って、即死少女の血を見た時、無意識がいかにおびえたとしても、彼女の意識は殆ど無関心であった。
 それから間もなく、関西の大都会での興行の折、とうとう来るべきものが来た。ラン子にパトロンがついたのだ。豚の様に肥え太った老資産家の愛撫が、彼女の心と身体にどんな急激な変化を与えたかは想像に難くはない。この老人こそ、江川蘭子の悪魔の生涯の、謂わば一種のポイントマンであった。


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