眠り薬
戸山定助老人につれられて、阪神沿線の洋風別邸に這入るまで、ラン子は、ただこの豚老人の前で、得意の軽業をやって見せればいいのだと思い込んでいた。
「何か御目にかけましょうか」
バルコンへ出た時、ラン子は庭の高い樹木を眺めて、無邪気に云った。彼女にはまだ、そんな野生の樹木に、猿の様に昇って見たい慾望が、いくらか残っていた。
「軽業かね。それもいいがね。もう日も暮れる。部屋へ這入って何かたべようじゃないか」
老人は絶えぬ笑顔を、一層歪めて室内へと誘った。
コックの爺やが御馳走とお酒を持って来た。ラン子はそのお酒をたらふく勧められて、真赤に酔っぱらってしまった。彼女はもうお酒の味を知っていたし、それが嫌いではなかったのだ。
部屋中がグルグル廻転し、耳のそばで馬鹿囃がチャンチャン囃し立てている中で、何かうるさく、彼女の頸に纏いつくものがあった。それが脂肪の塊りみたいな、毛むくじゃらの腕であることを悟ると、ラン子は耐え難い好奇心をそそられた。兼て恐れていたもの、併し同時に待ち望んでいたものが、とうとう訪れたのだ。しかもその相手が世にも醜悪なる豚老人であったことが、一層彼女を喜ばせた。こっそり人目を忍んだ、醜悪な、ドロドロした、いかもの食いの快味。
「お爺さん、あたし、嬉しくなっちゃったわ」
ラン子はパトロン老人に凭れかかって、うしろから手を廻して、ハゲ頭をピシャピシャ叩きながら、溶ける様な笑顔を見せた。
猥褻なる豚は、昂奮の余り、真青になった顔を、妙にこわばらせて、黙ったまま、ヌルヌルした唇で、彼女を圧迫した。
やがてラン子は、彼女の歯と歯の間に厚ぼったい唇を感じた。その気味悪さが、身震いの出る快感であった。彼女は悪寒の為に思わず歯ぎしりをした。
「ギャッ」という悲鳴に驚いて飛びのくと、茶色の豚は唇からタラタラ血を流して、笑っていた。
「踊りましょうか。お爺さん歌って下さらない」
ラン子は上着をちぎり捨てて、部屋の真中へ飛んで行った。そして、いきなりジョセフィン・ベイカアの踊りを踊り初めた。だが、踊っているのは、黒ん坊ではない。寧ろ気高い程も美しい、桃色の日本娘だ。その不調和が豚を気違いにしてしまった。彼は血のたれる唇を、だらしなく開いて、三十年以前の流行歌を怒鳴り始めた。
曲馬団の親方は、わざとラン子を置いてけぼりにしてしまったので、彼女は当分パトロン老人との共同生活を続ける外はなかった。
段々、この老人が非常な資産家の、恐らくは千万長者の隠居であること、隠居とは云え、老人自身も莫大な財産を所有していること、彼の息子の当主は大阪の有名な売薬製造業者であることなどが分って来た。老人は着物でも装身具でも、ラン子の望むがままに買い与えた。ラン子は、飛び切り新しい仕立ての着物をひらめかせて、神戸の元町通りを散歩するのが好きになった。
間もなく、元町通りの茶店で、アダムス四郎という二十三歳の英和混血児と知合いになった。四郎の高い透き通る鼻と、奥底の知れない青い眼と、鼻の上のそばかすとがラン子の気に入った。
四郎はラン子の住んでいる、パトロン老人の別宅へも遊びに来る様になった。
「君、あの爺さんの娘かい」
ある時、別宅の広間で、老人が洗面所へ立った留守に、ソーダ水を呑みながら四郎が尋ねた。彼は日本の不良少年の言葉を使った。
「そうじゃない。あたしお爺さんのオメカケよ。それを聞いて、もうあたしと遊ばなくなる?」
「遊ぶことは遊ぶけれど、君、あんな豚爺さん好きなのかい」
「嫌いでもないわ、でも、あんた程好きでもないわ」
「うまく云ってら。僕はお金がないからね」
「じゃ証拠を見せたげましょうか。あんたの方が好きだって云う」
「ウン」
四郎はうさん臭い顔をして生返事をした。
ラン子はテーブルの上にコップを三つ並べて、ソーダ水を注いだ。それから、洋服の胸から小さな紙包みを取出して四郎に渡した。
「このコップのどれか一つに、その薬を入れて、かき廻すのよ」
四郎は紙包みを開いて、白い粉を一寸甞めて見て、顔をしかめた。
「苦いね」
「エエ、苦いわ」
「誰に呑ませるのだい」
「お爺さん!」
「ホウ……」
四郎はさも驚いた様な、おどけた顔をして見せたが、その実は、芯から恐がっているらしく、持っている薬の紙がブルブル震えていた。
「早くしないと、今にお爺さんがやって来るわ」
「止そうよ。こんないたずら」
「あんた、恐いの」
ラン子は躊躇している青年の手を握って、一つのコップの上へ持って行って、振り動かした。粉薬はソーダ水に落ちてツーッと底の方へ沈んで行った。
「オイ、ラン子、何をかき廻しているんだね」
帰って来た老人が機嫌よく云った。
「お爺さんのソーダ水よ。かき廻してあまくして上げているんだわ。サ、皆で呑みましょうよ」
老人も青年もラン子も、一つずつコップを持った。
「お爺さん、断って置きますがね。その中には毒薬が這入っているのよ。今、あたしが入れたのよ。ねえ、四郎さん」
アダムス青年は、顔の筋を固くして、恐怖の表情を現わすまいと、一生懸命になっていた。