「ホウ、お前が、毒薬をね。わしを殺して置いて、四郎さんと御夫婦にでもなろうという訳かね。ハハハハハハハ」
老人は十六歳の少女と、子供子供した混血児を軽蔑していた。
「ねえ、四郎君、どうしたもんだろうね。これを呑んだもんだろうかね」
彼は脂肪の塊りみたいな腕で、アダムス青年のきゃしゃな肩を抱いて、愛撫する様にゆすぶった。
結局老人は、そのソーダ水を豚の様に喉を鳴らして、すっかり飲みほしてしまった。
「サア、ラン子、一踊り」
老人は青年の肩を抱いたまま、ソファに凭れ込んで、ラン子の例の踊りを所望した。
「エエ踊るわ」
彼女は無邪気に立って行って、蓄音器をかけ、大胆に着物をかなぐり捨てて、黒ん坊音楽につれて、狂暴な舞踏を踊り始めた。
老人はドラ声で訳の分らぬ歌を唄い出した。ラン子の身体は、野獣の様に猥褻に、軽業の様に軽快に、グルグルと廻転した。
若きアダムスは、前の快楽と、隣の恐怖とにはさまれて、名状し難い苦悶を味った。その上、脂肪の塊が段々強く彼を抱きしめる異様な触覚にも悩まされなければならなかった。
彼はその手を払いのけようともせず、わめく老人の横顔を、絶え間なく、ジロジロと、息づまる思いで眺めていた。
ラン子の舞踏が物狂わしくなりまさるにつれて、だが、老人の声は力を失い、青年の肩の腕が、だらしなく解けて行った。
四郎は飛出した両眼で、老人を凝視しながら、「お爺さん、お爺さん」と、そのブクブクふくれた太鼓腹を突いて見た。
老人は、鼾と厚い唇を伝う涎でそれに答えた。大きな丸々した顔が、青ざめて、朝のガラス窓の様に、汗の玉でビッショリだった。
青年はラン子の気違い踊りに飛びついて行って、それを止めた。彼はブルブル震える指で、グッタリとなった豚老人の姿をさし示した。
「マア、死んじまったのね」
ラン子はドアへ走って行って、内側から鍵をかけた。アダムスはびっくりしてラン子の平気な顔を見た。
「オイ、ラン子さん、いいのかい。いいのかい」
「いいのよ。サア、邪魔物はいなくなってしまった。思う存分遊べてよ」
ラン子は、レコードを入れ替えて、四郎青年を捕えると、いきなり出鱈目なステップを踏み始めた。ボウ、ボウとレコードのサキソフォンがわめいた。アダムスもつり込まれて、気が違って、四本の足が、乱痴気、乱痴気、踊り出した。
「いいことがあるわ」
ラン子は青年をつき放して、ソファへ走ると、豚老人の極上クッションみたいな身体を、床の上へ長く横たえた。彼女はそのふくらんだ太鼓腹に腰かけて、お尻をポコンポコンはずませながら、アダムスをさし招く。
青年は、恐怖だか喜悦だか、もう分らなくなってしまった、名状し難き昂奮に、フラフラしながら、同じ様に人間クッションに腰をかけた。
並んだ二人がレコードに合わせて、足を振り動かすにつれて、太鼓腹が水枕みたいに、ダブダブと揺れた。
「あんた、この人死んじまったと思ってるの?」
ラン子がアダムス青年の肘をつついて、クスクス笑いながら云った。
「眠り薬よ。この人が常用しているジァールの分量をちょっぴり多くした丈けなのよ。ホラ、御覧なさい。もう眼を覚しかけているわ」
二人が腰かけたまま、頬をすれすれに並べて、人間クッションの顔をのぞき込むと、老人は睡眠薬の効力がまだ失せないのに、腹の上の運動で無理に揺りおこされた、朦朧とした意識で、ボンヤリ薄目を開けて、じっと二人の姿を見つめていた。
「アラ、笑ってるわ。こんな目に合うのが、きっと嬉しいのよ」
それは冗談ではなかった。老人はウットリと目を細めて、ゆるんだ頬でニタニタと、気味悪く笑っていた。
それを見ると、二人とも、少し恐くなって立上った。
「そうじゃないわ。何か嬉しい夢でも見ているんだわ。平気よ。平気よ」
ラン子が止めたけれど、アダムス青年は老人が本当に目を覚さぬ内に帰ると云い張った。
「じゃあ左様なら」玄関まで送って行ったラン子が、そっけない調子で云った。「あたし、やっぱり、あんたよりはお爺さんの方がいくらか好きだわ。だって、あんた、あいの子の癖に、意気地なしなんだもの」
という事件があってから、ラン子の心に、又一段の変化が来た。
彼女は春に目覚めた。と同時に、悪にも目覚めたのだ。「支持の滅失」が如何に誇張され、どんな高い所から飛降りて見た所で、繰返している内には刺戟ではなくなって来る。彼女は真似手のない程危険な軽業にも飽き飽きしてしまって、もうこれで世の中の興味はおしまいかしらと、生甲斐なく思い始めた所へ、パトロン老人が現われた。そして、彼女は人間の情事も亦、軽業と同じ様に、胸をワクワクさせる快楽の一種であることを悟った。
だがそれよりも、あの殺人遊戯と密通遊戯が彼女の心に与えた変化は大きかった。ソーダ水のコップの中へ、粉薬を入れる時の何とも云えぬ罪の快感。それを老人が飲みほす刹那の、総毛立つ様な歓喜。寝入った豚の前での、秘密な悦楽。それらは、どんな空中の離れ業よりも、もっともっと彼女を昂奮させる力を持っていた。アア、世の中にはこんな面白いことがあったのかと、ラン子はもう有頂天になってしまった。
だが、彼女はまだ老い先長い十六歳の小娘だ。年と共に、彼女の胸に咲き乱れるであろう悪の華が、如何に毒々しく美しいものであるか。年長じてどの様な妖婦となり、年老いて如何なる悪婆となるか。彼女が第一に行う大犯罪はそもそも何事であるか。又この女悪魔を向うに廻して闘うものは誰か。或は飜然悔悟して、和製女ヴィドックとなるか。それとも又、江川蘭子は忽然姿を消し去って、全く別の人物が舞台を占領するか。凡て凡て、この作者は何も知らないのである。