三
その晩、浩一は靖国神社のそばの小さなホテルに泊ったが、一と晩じゅうまんじりともせず、泣きあかした。涙があとからあとから、とめどもなく溢れ出して来て、どうすることも出来なかった。熱病のように、からだがふるえていた。翌朝になって少し眠ったけれど、熟睡はしなかった。午後は湯にはいったり、床屋へ行ったり、肌着やワイシャツを更えたりして、ソワソワとすごした。まだ明るいうちから、あのアパートの前へ、行って見たくなるのを、じっとこらえて、約束の時間が来るのを待った。
夜の九時少し前、浩一は相川ヒトミの高級アパートへの道を、わき目もふらず歩いていた。暗い屋敷町にはまったく人通りがなかった。しかし、彼は、とある街角で、びっくりして立ち止まった。殆んど放心状態の彼の目にも、とまらないではいないような、変てこなものが、そこに遠くの街燈の光を受けてボンヤリと立っていた。モーニングに山高帽のサンドイッチ・マンだった。
浩一は幻を見ているのではないかと疑ぐった。人通りもない暗い街角にサンドイッチ・マンが立っているなんて、考えられないことだ。彼は思わず立ち止まって、その方をすかして見た。顔はまっ白だし、つけひげも見えたが、ゆうべの男と同じかどうかはわからなかった。
暗い中の睨み合いが、ちょっとつづいた。すると、サンドイッチ・マンの左手が、サッと水平にあがった。その手は例のステッキを持っていた。シグナルのように、それで右の方をさし示している。そして右手を直角に曲げて、胸の前で、あげたり下げたりしはじめた。同時に、植え睫毛の目と、まっ赤に塗った口が、ひらいたり、とじたりしているのであろう。暗いので、よくわからなかったが、以前の連想から、それが感じられた。自動人形のように、いつまでもその動作をつづけていた。
このサンドイッチ・マンは気がちがっているのかも知れない。浩一は怖くなって、逃げるように、その場を遠ざかったが、気になるので、少し歩いてからふりかえって見ると、その街角にはもう何もいなかった。それじゃ、やっぱり幽霊を見たのかと思うと、何とも云えない変な気持になった。
走るようにして、アパートにたどりついた。云われた通り、入口の管理人の小さな窓には、なんの挨拶もせず、いきなり階段を上がって、見覚えの部屋の前に立った。
鍵はかけてないかも知れない。はじめは軽く、次には強くノックして見た。返事がない。ひっそりと静まり返っている。ノッブを廻して見たが、ひらかない。やっぱり鍵がかかっているのだ。まさか、いないのではあるまい。媾曳の作法にしたがって合鍵を使わせるために、わざと息を殺しているのだろうか。
合鍵をとり出してドアをひらいた。彼女がドアの横の壁に隠れていることを予期したので、少しずつ、用心深くひらいた。何の手ごたえもない。
「ヒトミさん」小声で呼んで見た。シーンとしている。室にはいって、うしろ手にドアをしめた。
「ヒトミさん、ぼくです」
今度は少し大きい声を出した。声は空しく壁に当って帰ってくる。空家の感じだ。腕時計を見た。九時を少しすぎている。外出しているのかしら。まさか違約するはずはない。何か事故が起ったのだろうか。
ふと不吉な想念が頭をかすめた。「おれは彼女のために、陥穽にはまったのではないか」なぜともなく、次の部屋が気になった。そこに自分をおとしいれる何物かが待ちかまえているような気がした。
寝室へのドアは五寸ほどひらいていた。それをもっとひらくのには勇気を要した。しかし、浩一は思いきって、ドアをおした。
ベッドの前の床に、人が寝ていた。男だった。浩一は血が頭からスーッとさがって行くのを感じた。やっぱりそうだった。この男は死んでいるにちがいない。おれは下手人にされるのだ。相川ヒトミの陰謀が見えすくように思われた。アパートの部屋は、この目的のために臨時に数日だけ借りたのかも知れない。そして、あの女はもう、どこかへ行方をくらまして、二度とここへは帰って来ないのかも知れない。おれは、下手人にするために愛されたのだ。……疑惑が先へ先へと走った。
浩一は寝ている男の上から、覗きこんで見た。鼠色の背広がまだ新らしかった。赤い縞のネクタイが、頬の上にはね返って、肥った顔が土色だった。チョッキがベットリ濡れていた。その下のワイシャツが、頸の辺までまっ赤に染まっていた。胸を刺されているのだろう。五十前後のデブデブ肥った男だった。土色の頭は、地肌が露出して、絹糸のもつれたような毛が、僅かに残っているにすぎなかった。
彼が接近したことが、刺戟になったのかも知れない。その時、おそろしいことが起った。倒れている男の瞼が動き出した。そしてパッと、目が飛び出すほど見ひらかれた。ガクンと寝返りをうった。そして両手で床を引っ掻き、烈しくもがきはじめた。そのもがき方は、こちらが全身汗びっしょりになるほど、恐ろしいものだった。
肥ったからだから、ゴム人形をおしつぶしたような、妙な叫び声が漏れた。何か云っている。飛び出した眼が、浩一の顔に釘づけになっている。哀願の目だ。
「殺してくれ。くるしい。早く、殺してくれ」
人間の言葉ではない言葉だった。
警察官ならば、このとき、「しっかりしろ、犯人はだれだ。おい、だれにやられたんだ」と、執念深く訊くだろう。だが、浩一はそんなことを確かめる気はなかった。彼自身が下手人に設定されているのだ。それが、かぐわしい空いっぱいの幻の裸女の願いなのだ。花のような彼の神様の意志なのだ。彼女の犠牲となることは、浩一の無上の喜びだった。彼女のために下手人になることが、泣き出したいほど嬉しかった。
浩一は、もがいている醜い中年男を憎悪した。しかし、彼の飛び出した哀願の目は恐ろしかった。もう助ける道はない。半分死んでいるのだ。そして、早くこの苦しみを断ってくれと、哀願しているのだ。
彼はそのへんを、キョロキョロと見廻した。ベッドの枕下の小卓に小型の卓上燈があった。そのブロンズの台が、重そうに見えた。彼はいきなり、それをひっつかんで、もがきまわる男の頭のへんに、両足をひろげて立った。
浩一は、その光景が、死ぬまで目の底に残っていた。その刹那にひらめいた考えか、あとになって連想したのか、よくわからなかったが、その時の光景と遙か幼時の記憶とが、かたく結びついて離れなかった。
七八歳の頃、近所の腕白小僧どもといっしょに、一匹ののら猫を追っかけていた。猫は生垣の中に身をかくした。みんな石を投げつけた。誰かの石が猫の顔にあたった。猫はその場に倒れて、恐ろしくもがいた。一方の目玉が、眼窩から飛び出して、ダランと口の辺まで垂れていた。
腕白小僧どもは、皆逃げ出してしまった。浩一だけが逃げなかった。猫の苦悶が恐ろしかったからだ。可哀そうで、そのまま逃げ去るにしのびなかったからだ。この苦悶から救うのには、一と思いに殺すほかはない。そうしなければ、哀れな動物は永遠にもがき苦しんでいなければならない。少年浩一は、その残酷に耐えられなかった。
彼は大きな石を拾って、猫の頭の辺に両足をひろげて立った。そして、心臓が飛び出す思いで、目をつむって、猫の頭を目がけて、その大石を投げおろした。頭蓋骨のつぶれる音がした。
【附記】中篇は香山滋君、後篇は鷲尾三郎君が執筆した。前、中、後篇一挙掲載であった。