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犬神家族-発 端(2)
日期:2022-05-31 23:58  点击:303
大弐の死後間もなく、わすれがたみの祝子に養子をむかえて、神官の職をつがせたが、
それはみんな佐兵衛の|斡《あつ》|旋《せん》であった。この養子と祝子のあいだには、
長いあいだ子がなかったが、結婚後十数年たった、大正十三年にはじめて女の子が生まれ
た。それが珠世である。
珠世の生まれたころには、祖母の晴世もすでに死亡していたし、また珠世の二十になる
まえに、父母ともにあいついでみまかったので、珠世は犬神家にひきとられた。そして、
そこで一種特別な待遇……大事な主家のわすれがたみとして下へもおかぬ|丁重《ていち
ょう》な、客分扱いをうけていた。
ところで犬神佐兵衛だが、どういうわけか、生涯かれは正室というものを持たなかった。
佐兵衛には、松子、竹子、梅子と女ばかり三人の子どもがあったが、三人が三人とも生母
を異にしており、いずれも佐兵衛の正式の妻ではなかった。この三人はともに養子をむか
えて、それぞれ子どももあり、長女松子の夫が那須市の本店、次女竹子の夫が東京支店、
三女梅子の夫が神戸支店と、めいめい支配人をつとめていた。佐兵衛翁は犬神財閥の巨大
実権を、死ぬまで一手ににぎって、絶対にこれを、婿たちに譲らなかったのである。
さて、昭和二十×年二月十八日、犬神佐兵衛臨終の|枕《ちん》|頭《とう》に侍した
犬神家の一族というのはつぎのひとびとであった。
まず長女の松子。彼女は五十歳の坂を二つ三つ越した年ごろだが犬神家の一族では、当
時いちばん孤独な|境涯《きょうがい》におかれていた。それというのが、彼女の夫は先
年なくなっていたし、一人息子の|佐《すけ》|清《きよ》は、戦争にとられたきり、ま
だ復員していなかった。もっとも終戦後間もなく、ビルマから便りがあり、生きているこ
とはわかったが、復員するのはいつのことかわからなかった。だから、佐兵衛翁の三人の
孫息子のうち、佐清だけが臨終の席にいなかったわけである。
さて、松子のつぎには次女の竹子とその夫の|寅《とら》|之《の》|助《すけ》、それ
から二人のあいだにできた|佐《すけ》|武《たけ》と小夜子の兄妹。佐武は二十八、妹
の小夜子は二十二歳である。
さて、竹子の一家のつぎには三女梅子とその夫幸吉、それから一人息子の|佐《すけ》|
智《とも》がひかえている。佐智は佐武とは一つちがいの二十七歳である。
以上八人に未復員の佐清を加えた九人が、佐兵衛翁にとって血縁にあたるひとびとであ
り、これが犬神家の一族の全部であった。
さて、佐兵衛翁の臨終の席には、以上述べた人々のほかにもうひとり佐兵衛翁にとって
縁故の深い人物が|侍《はべ》っていた。いうまでもなくそれは野々宮家のたったひとり
の遺児珠世である。珠世は二十六になる。
ひとびとはいま、刻々と細りいく佐兵衛翁の息づかいを見守りながら石のように押しだ
まっている。不思議なことにはそれらのひとびとの顔色には、肉親の臨終の席に侍してい
る悲哀のいろが微塵も見られなかった。いやいや、悲哀どころか、珠世をのぞいたほかの
ひとびとの顔に、一様にうかんでいるのは焦燥のいろだった。かれらは何かひどくあせっ
ている。のみならず、たがいに腹をさぐりあっている。おとろえていく佐兵衛翁から眼を
はなすとき、かれらの眼はかならず|猜《さい》|疑《ぎ》にみちたいろをうかべて、同
族の人々の顔を見回すのである。
かれらがあせっているのは、佐兵衛翁の遺志がわからないからである。この巨大な犬神
財閥の機構は、翁の死後、だれによってうけつがれるべきか。また、あの|莫《ばく》|
大《だい》な翁の遺産は、どのように分配されるのか、それに対して佐兵衛翁は、いまま
で一度も意思表示をしていないのである。
そのことについて、かれらが焦燥し、懸念するには、ひとつの理由があった。佐兵衛は
かれの娘たちに対して、どういうわけか微塵も愛情をもっていなかった。いわんや、娘の
婿たちに対しては、小指のさきほどの信頼もおいていなかったのである。
主治医に脈をとられたまま、佐兵衛翁の息は刻々として細っていく。たまりかねて長女
の松子が、とうとう|膝《ひざ》を乗り出した。
「お父様、御遺言は……? 御遺言は……?」
松子の声が耳にはいったのか、佐兵衛翁はうっすらと眼を見開いた。
「お父様、御遺言がございましたらおっしゃってくださいまし。みなお父様の御遺言をお
うかがいしたいと待っております」
松子の言葉の意味がわかったのか、翁はかすかにほほえむとふるえる指をあげて、末席
に侍っている人物を指さした。佐兵衛翁に指さされたのは、犬神家の顧問弁護士|古館恭
三《ふるだてきょうぞう》という人物であった。佐兵衛翁に指さされて、古館弁護士はか
るく|咳《せき》をすると、
「いや、御老人の遺言状ならば、たしかにこの私がおあずかりいたしております」
古館弁護士のこの一言は、しめやかな臨終の席に、爆弾を投げつけたも同様の効果があ
った。珠世をのぞいたほかの人物は、|愕《がく》|然《ぜん》として古館弁護士のほう
をふりかえった。
「遺言状があったのですか」
あえぐようにつぶやいたのは、次女竹子の亭主寅之助であった。かれはそうつぶやいて
から、あわててポケットからハンケチを出して、額ににじむ汗をぬぐった。それが寒い二
月であったにかかわらず。――
「そしてその遺言状はいつ発表されるのですか。社長がおなくなりになったらすぐ……」
そう尋ねたのは、三女梅子の亭主幸吉である。かれの顔にも、はげしい焦燥の色がうか
んでいた。
「いや、そういうわけにはまいりません、御老人の意思によってこの遺言状は、|佐《す
け》|清《きよ》さんが復員されたときはじめて開封、発表されることになっております」
「佐清君が……」
そうつぶやいたのは、竹子の息子の佐武である。なんとなく不安そうな顔色だった。
「しかし、もし、佐清さんが復員できないような場合には……? 不吉なことをいうよう
ですけれど……」
そういったのは次女の竹子である。松子はそれをきくと、ギロリとすごい眼をひからせ
た。
「ほんとに竹子さんのおっしゃるとおりですわね。生きていらっしゃるといっても、遠い
ビルマのことですもの。お国へかえってくるまでには、まだまだ、どのようなことがある
かもしれませんわ」
三女の梅子である。姉の顔色などなんのそのといわぬばかりの顔つきで、なんとなく毒
々しい口のききかただった。
「いや、なに、そんな場合には……」
と、古館弁護士はかるく咳払いをして、
「御老人の一周忌を期して発表することになっております。そして、それまでのあいだ、
犬神家の事業、ならびに財産の管理は、いっさい犬神奉公会で代行することになっており
ます」
不快な沈黙がシーンと一同の上におちてきた。珠世をのぞくほかのひとびとの顔には、
一様に焦燥と懸念とそれから一種の憎悪の色さえうかんでいる。松子でさえが、希望と不
安と願望と、憎悪のいりまじった眼で、佐兵衛翁の顔を凝視している。
佐兵衛翁はしかし、あいかわらず薄笑いを口もとにうかべたまま、うつろの眼を見はっ
て、松子から順繰りに、一同の顔をながめていたが、最後にその眼が珠世にそそがれると
佐兵衛翁の視線は、それきり動かなくなった。
脈をとっていた医者が、そのときおごそかな声で宣言した。
「御臨終です」
かくて犬神佐兵衛翁は、八十一歳の事多かった生涯をとじたのであったが、いまにして
思えば、この瞬間こそ、そののちに起こった犬神家の、あの血みどろな事件の発端だった
のである。


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