金田一耕助も、犬神佐兵衛翁がこの春さきになくなったことを知っていた。また、翁の
遺言状の公開が、孫のひとりが復員するまで、保留されていることを、なにかで読んだこ
とも思い出した。耕助の好奇心はいよいよ強くあおられた。そこで、そのころひっかかっ
ていた事件を大急ぎで片づけると、スーツケース片手に、|飄然《ひょうぜん》としてこ
の那須市へやってきたのである。
金田一耕助が手紙と本を膝へおいて、ぼんやりそんなことを考えているところへ、女中
が茶をもってきた。
「ああ、きみ、きみ」
茶をおいて立ち去ろうとする女中を、耕助はあわてて呼びとめると、
「犬神さんのお宅というのはどのへんだね」
「犬神さまのお宅ならば、向こうに見えるあれがそうでございます」
女中の指さすところを見ると、なるほどホテルから数町はなれたところに、美しいクリ
ーム色の洋館と、複雑な|勾《こう》|配《ばい》をもった、大きな日本建築の屋根が見
える。犬神家の裏庭は、直接湖水に面しており、大きな水門をもって、湖水の水ともつな
がっているらしい。
「なるほどりっぱなお屋敷だね。ときに、なくなった佐兵衛氏の、お孫さんのひとりがま
だ復員していないということだが、その後どうなったかしら。まだ音さたはないのかね」
「いえ、あの、佐清さまならば、先日博多へお着きとやらで、お母さまが大喜びでお迎え
にいらっしゃいました。いま、東京の屋敷のほうに御滞在中とやらですが、二、三日うち
に、こちらのほうへ帰ってお見えになるということです」
「ほほう、帰ってきたのかね」
なんとなく、おりもおりという感じで、金田一耕助の胸はおどった。
そのときである。犬神家の水門が、スルスルと上へひらいたかと思うと、なかから|一
《いっ》|艘《そう》のボートがすべり出してきた。ボートにはただひとり、若い婦人が
乗っている。そのボートを見送るように、男がひとり、水門の外の犬走りへ出てきた。
ボートの婦人と犬走りの上の男は、二言三言、なにかいっているようだったが、ボート
の婦人が手をふると、男はのっそりと水門のなかへはいっていった。女はなれた手つきで
オールを操りながらス?ス?と沖へ|漕《こ》ぎ出していく。いかにも楽しそうである。
「あの婦人は犬神のひとかえ」
「|珠《たま》|世《よ》さまですね。いえ犬神さまのお身内のかたではありませんが、
なんですか、犬神さまの主筋とかに当たられるかただそうで……それはそれはきれいなか
た、たぶんあんなきれいなひとは、日本にふたりとはあるまいという評判でございますわ」
「ほほう、そんな美人かね。どれどれ、それじゃひとつ、お顔拝見といこうか」
女中の誇張したいいかたを、おかしく思いながら、それでも耕助はスーツケースのなか
から、双眼鏡を取り出すと、ボートの珠世にピントをあわせたが、レンズにうつるその顔
を、凝視しているうちに、なんともいえぬ|戦《せん》|慄《りつ》が、背筋をつらぬい
て走るのを、禁ずることはできなかった。
ああ、女中の言葉は誇張ではなかったのだ。金田一耕助も、いままでそのような、美人
にお眼にかかったことは一度もなかった。少し仰向きかげんに、いかにも楽しげにオール
を操る珠世の美しさというものは、ほとんどこの世のものとは思えなかった。少し長めに
カットして、さきをふっさりカールさせた髪、ふくよかな|頬《ほお》、長いまつげ、格好
のいい鼻、ふるいつきたいほど魅力のあるくちびる――スポーツドレスがしなやかな体に
ぴったり合って、体の線ののびのびした美しさは、ほとんど筆にも言葉にもつくしがたい
ほどだった。
美人もここまでくるとかえって恐ろしい。戦慄的である。金田一耕助は呼吸をつめて、
珠世の姿を見守っていたが、そのときである。珠世の態度が急にかわった。
オールを漕ぐ手をやめて、珠世はボートのなかを見回していたが、どうしたことか、急
になにやら大きく叫んだ。叫んだ拍子にオールを手から離したので、ボートがぐらりと傾
いて大きくゆれた。珠世はボートのなかに立ちあがると恐怖に満ちた眼を大きく見はって、
気が狂ったように両手をふった。その足下からボートがみるみる沈んでいく。金田一耕助
ははじかれたように、|籐《とう》|椅《い》|子《す》からとびあがった。
寝室の|蝮《まむし》
金田一耕助はこのときけっして、客の来るのを忘れていたわけではない。しかし、それ
にはまだ間があると思っていたのと、みすみす眼前におぼれるものを、見のがすわけには
いかなかったのとで、座敷をとび出すと大急ぎで階段を駆けおりていったが、あとから思
えばこのことが、犬神家の事件の調査に|蹉《さ》|跌《てつ》をきたす第一步だったの
だ。
もし、あのとき珠世がおぼれなかったら、そして金田一耕助がとび出さなかったら、犬
神家に起こった事件は、もっと早く解決していたにちがいない。
それはさておき、金田一耕助が階下へとびおりると、あとからついてきた女中が、
「|旦《だん》|那《な》様、こちらへ……」
と、足袋はだしのまま庭へとびおりると、さきに立って裏木戸のほうへ走っていく。金
田一耕助もそのうしろから走っていった。裏木戸をひらくと、外はすぐ湖水で、小さな|
桟《さん》|橋《ばし》の下にボートが二、三|艘《そう》つないである。那須ホテル専
用のボートで、舟遊びをする客のために、そなえつけてあるのであった。
「旦那様、ボートお|漕《こ》げになりますか」
「うん大丈夫だ」
ボートなら耕助にも、腕に自信があった。耕助がボートにとびうつると、女中がすばや
くともづなを解く。
「旦那様、気をおつけになって」
「うん、よし、大丈夫だ」
耕助はオールを握ると、満身の力をこめて漕ぎ出した。
と、見れば湖心のあたりでは、ボートはすでに半ば以上も水に没して、珠世が狂気のご
とく救いを求めている。
那須湖はそれほどふかい湖水ではないが、それがかえって危険なのである。湖底から伸
びた丈余の|藻《も》|草《ぐさ》が、水のなかで女の髪の毛のようにもつれあい、から
みあっているから、うっかりそれに巻きこまれると、相当泳ぎの達者なものでも、おぼれ
ることが珍しくなく、また、おぼれるとなかなか|死《し》|骸《がい》があがらないの
である。
珠世の叫びをききつけたのか、耕助より少しおくれて、向こうの貸しボート屋の桟橋か
らも、二、三艘のボートがバラバラと漕ぎ出した。また女中の知らせに驚いてとび出した
のだろう。耕助のうしろからも、那須ホテルの番頭や男衆たちが大声にわめきながらボー
トを漕いでくる。