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犬神家族-第一章 絶世の美人(3)
日期:2022-05-31 23:58  点击:300
それらのボートの先頭をきって、耕助は夢中でオールを操っていたが、そのときだった。
犬神家の水門のなかから、さっきの男が犬走りの上にとび出してきた。男は沖の様子を
みると、すばやく上衣をとり、ズボンをぬいで、ざんぶとばかり湖水にとびこむと、沈み
いくボートを目ざして泳ぎ出したが、いやその早いこと、早いこと。
両腕が水車のように回転して、猛烈なしぶきがあがる。スルスル、男はまるで|銀《ぎ
ん》|蛇《じゃ》のように、ながくうしろに|水《み》|尾《お》をひいて、一直線にボ
ートのほうへ進んでいった。
結局、この男がいちばん早く、珠世のそばへ泳ぎついたのである。
耕助がようやくそばまで漕ぎ寄せたとき、珠世のボートはすでに|舷《ふなばた》まで
水につかって、珠世はぐったり水のなかで男の腕に抱かれていた。
「やあ、どうもたいへんでしたね。さあ、早くおあがりなさい」
「旦那、どうも。それじゃ、お嬢さんを頼みますよ。おらぁボートおさえているだから」
「ああ、そう、それじゃそのひとを……」
「すみません」
珠世は耕助の腕にすがって、やっとボートに|這《は》いあがった。
「きみ、きみ、きみもこのボートにあがりたまえ」
「へえ、ありがとう。それじゃごめんこうむって……ボートがひっくりかえるといけねえ
から、そっちのほうをおさえていてください」
男は身軽に這いあがったが、そのときはじめてまともから男の顔を正視した金田一耕助
は、なんともいえぬ異様な感じに打たれたのである。
その男の顔は猿にそっくりだった。額がせまく、眼がおちくぼんで頬が異様にこけてい
る。醜いといえば、このうえもなく醜い顔だが、その代わり、一挙一動に誠実さが現われ
ていた。
男は珠世をしかりつけるように、
「お嬢さん、だからいわねえことじゃねえんだ。あれほど気をつけなきゃいけねえといっ
ているのに……これで、三度目じゃあねえだか」
三度という言葉が、強く耕助の耳にひびいた。
なんとなくハッとした珠世の顔を見直すと、珠世はいたずらを見つけられた子どものよ
うに、泣き笑いをしながら、
「だって、猿蔵、しかたがないわ。ボートに穴があいてるなんてこと、ちっとも知らなか
ったんですもの」
「ボートに穴があいていたんですって?」
耕助は思わず眼を見はって、珠世の顔を見直した。
「ええ、そうらしいんですの、穴があいてるところを、なにかで詰めてあったらしいんで
すのよ。その詰めの物がとれたものだから……」
そこへホテルの番頭や、貸しボート屋の客がおおぜい漕ぎ寄せてきた。耕助はしばらく
なにか考えていたが、やがて番頭に向かって、
「きみ、きみ、番頭さんすまないがね、そのボートを沈めないように、なんとかくふうを
して岸まで持っていってくれませんか。あとで調べてみたいと思うから……」
「へえ」
番頭は妙な顔をしていたが、耕助はそのまま珠世のほうへ向き直ると、
「それじゃあ、お宅までお送りしましょう。家へかえったらすぐ温泉へとびこんで、暖か
くしていらっしゃい。でないと、風邪をひきますよ」
「ええ、ありがとうございます」
まだ、がやがやと騒いでいる、宿の番頭や野次馬をあとにのこして、耕助はゆっくりボ
ートを漕ぎ出した。
いまかれの眼のまえには、珠世と猿蔵がすわっている。珠世は猿蔵のひろい胸に頭をよ
せて、いかにも安心しきった様子である。猿蔵は顔こそ醜かったが、その体のたくましさ
は、さながら岩のようである。その猿蔵の太い腕に、しっかり抱かれた珠世をみると、ま
るで松の古木にからみついた、|可《か》|憐《れん》な|蔓《つる》|草《くさ》のよ
うであった。
それにしても、いまこうして眼近に見る珠世の美しさはいよいよ尋常ではなかった。顔
かたちの美しさはいうまでもないとして、水にぬれたその肌の、ほんのりと血の気ににお
う美しさは、まるで照りかがやくばかり、およそ女色に心を動かしたことのない金田一耕
助もこのときばかりは胸が躍った。
耕助はしばらくうっとり、珠世の顔を見つめていたが、珠世がそれに気がついて、ポー
ッと|頬《ほお》を染めるのを見ると、あわててつばをのみこんだ。それからいくぶん照
れ気味に、猿蔵に向かってこんなことをいった。
「さっき、きみは変なことをいったね。これで三度目じゃないかと。……すると、ときど
きこんなことがあるんですか」
猿蔵はギロリと眼をひからせると、探るように耕助の顔を読みながら、それでも重い口
ぶりで、
「そうだよ。ちかごろちょくちょく変なことがあるで、それでおらぁ心配してるだ」
「変なことというと……」
「あら、なんでもありませんのよ。猿蔵、あんたバカねえ。まだあのこと気にしてるの、
あれはみんななにかのまちがいよ」
「まちがいだって、お嬢さん、まかりまちがえばあんたの命にかかわることだ。どうもお
らぁ不思議でならねえ」
「へえ、命にかかわることって、どんなことがあったんです」
「一度はお嬢さんの夜具のなかに、|蝮《まむし》がとぐろをまいていただよ。幸い早く
気がついたからよかったものの、うっかり|咬《か》まれたら死なねえまでも大けがをす
るとこだ。それから二度目にゃ、自動車のブレーキがきかねえようにしてあっただ。それ
でお嬢さん、危なく崖から自動車もろとも落っこちそうになっただあな」
「うそよ、うそよ、そんなことなんでもないのよ、偶然そんなまわり合わせになったんだ
わ。猿蔵、おまえは少し取り越し苦労をしすぎるのよ」
「だって、こんなことがたび重なると、いつどんなことが起こるかもしれねえ。それを考
えるとおらぁ心配で、心配で……」
「バカねえ。もうこのうえ、なにが起こるもんですか。あたしは運がいいのよ。運がいい
からいつも助かっているじゃないの。そんな心配されると、あたしかえって気味が悪いわ」
珠世と猿蔵がいい争っているうちに、ボートは、犬神家の水門へついた。
耕助はそこの犬走りの上に、ふたりを残すと、お礼の言葉をあとにして、ホテルのほう
へ漕ぎもどったが、そのみちみち、いまの猿蔵から聞いた言葉を思い出してみる。

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