こうわかると、すぐに注目をひいたのは、若林豊一郎が灰皿のなかに吸いのこした煙草
の吸いがらである。この吸いがらは外国煙草だったが、これを分析した結果、果たして毒
物は煙草のなかに混ぜられていたことがわかったのである。しかも、妙なことには、毒物
の混ざっていた煙草は、その吸いがらの一本きりだった。
若林豊一郎のシガレットケースには、まだ数本の煙草が残っていたが、それらの煙草か
らは、格別怪しいものは発見されなかった。してみると犯人は、いつ幾日、若林豊一郎を
殺そうという、ハッキリとした目算はなかったが、いつでもよい、早晚、若林豊一郎は死
にさえすればよかったのだろう。
このやりくちは、非常に|悠長《ゆうちょう》なように見える。だが、それだけにまた、
巧妙かつ陰険きわまる手段ともいえるのだ。なぜならば、事件のおこった際、犯人は必ず
しも被害者の身辺にいなくともよい。それだけに嫌疑をうけるパーセンテージも、他の毒
殺の場合にくらべて、はるかに少ないのである。
金田一耕助は、この陰険極まるやりくちに、舌をまいて驚嘆せずにはいられなかった。
いまや金田一耕助にむかって、戦いをいどんできた相手は、容易ならぬ人物なのだ。
それはさておき、若林豊一郎が変死を遂げた翌日、那須ホテルへ金田一耕助を訪ねてき
た客がある。
女中が持ってきた名刺を見ると、「古館恭三」
耕助はそれを見ると、思わずドキリと眼をとがらせた。
古館恭三といえば、古館法律事務所の所長にちがいない。そして、そのひとこそ、犬神
家の顧問弁護士であり、かつまた、犬神佐兵衛翁の遺言状を預かっている人物なのだ。
金田一耕助は一種の胸騒ぎを感じながら、すぐこちらへ通すようにと女中に命じた。
古館恭三というのは色の浅黒い、一種きびしい表情をもった、初老の紳士であった。
かれは職業的な鋭さを持ったまなざしで、ぬかりなく耕助の様子を観察しながら、それ
でも、言葉だけはていねいに初対面のあいさつと、突然の来訪について陳謝の意をのべた。
耕助はそれがくせの、がりがり頭をかきまわしながら、
「いやあ、ど、どうも……昨日はぼくも驚きましたが、あなたのほうでも、さぞ、びっく
りされたでしょう」
「さよう、事の意外に私はまだ、真実だとは思えぬくらいで……それについて、実は今日
お伺いしたのですが……」
「はあ」
「さっき、警察でもきいたのですが、若林君はあなたになにか調査を依頼しようとしてい
たそうですが……」
「そうなんですよ。ところがそれを聞くまえにあんなことになってしまって……いったい
なんの調査をぼくに依頼しようとしていたのか、わからんことになってしまったのですよ」
「しかし、ヒントぐらいはおわかりでしょう。手紙かなんかでお願いしたと思うのです
が……」
「ええ、それは……」
金田一耕助は、じっと顔を見すえながら、
「古館さん。あなたは犬神家の顧問弁護士でしたね」
「さよう」
「とすれば、犬神家の名誉はお守りくださるでしょうね」
「それはもちろん。……」
「実はね。古館さん」
金田一耕助は急に声をおとすと、
「ぼくも犬神家の名誉を考えて、つまらんことはしゃべらないほうがよかろうと、警察に
も黙ってたんですが、実は若林氏からこんな手紙をちょうだいしたんですよ」
金田一耕助は例の手紙を出してみせた。そして、その手紙を読んでいる、古館弁護士の
表情を、注意ぶかく見守っていた。
古館弁護士の顔色には、みるみる深いおどろきの色がひろがってくる。浅黒い額に、深
いしわがきざまれて、ビッショリと汗がうかんできた。手紙を持つ手がブルブルふるえた。
「古館さん、あなたはその手紙の内容について、なにかお心当たりはありませんか」
古館弁護士はしばらく放心したような顔をしていたが、耕助にそう声をかけられると、
ドキッとしたように肩をふるわせた。
「ああ、いや……」
「ぼくは不思議でならないんですが、犬神家になにか起こりそうな気配があるとしても、
若林氏がどうしてそれを知っていたか……この手紙を見ると、若林氏はそのことについて
ひどく確信があるようですが、どうしてそういう確信を持つにいたったか、古館さん、あ
なたはそれについて、なにかお心当たりはありませんか」
古館弁護士の顔色には大きな動揺があらわれていた。かれにはなにか心当たりがあるら
しいのだ。
耕助は膝を乗り出し、
「古館さん、あなたはこの手紙のことを全然ご存じじゃなかったのですか。若林氏が、な
にかぼくに調査を依頼していたことを……」
「知りませんでした。もっとも、今から思えば、若林君の様子にはたしかに変わったとこ
ろがあった。妙にビクビクとして、なにか恐れているところが……」
「何か恐れていた……?」
「ええ、そう。これは若林君が殺されてから、はじめて思いあたるところなんですが……」
「いったい、何を恐れていたのでしょう。あなたはそれについて、なにかお心当たりはあ
りませんか」
「さあ、それですがね」
古館弁護士は心中なにかとたたかっている|風《ふ》|情《ぜい》だったが、やがて心
をきめたように、
「実はそれについて、あなたとも御相談してみようと思ってあがったのですが……実は、
犬神佐兵衛翁の遺言状ですがね……」
「はあ、遺言状が……? どうかしましたか」
「その遺言状は、私の事務所の金庫のなかにしまってあるんですが、昨日、若林君のこと
があってから、なんとなく胸騒ぎがしたものですから、金庫をしらべてみたところ、その
遺言状が、だれかに読まれたらしい気配があるんです」
耕助は思わず、ドキリと膝をすぼめた。
「遺言状が……? だれかに読まれた……?」
古館弁護士は暗い顔をしてうなずいた。耕助はいくらか息をはずませながら、
「そして、その遺言状を読まれては、なにか不都合なことがあるんですか」