「いや、この遺言状は早晚……と、いっても、佐清君がいよいよ復員してきましたから、
二、三日うちに発表されることになっていますが、私はかねがね、この遺言状が発表され
たら、なにか一騒動起こらねばよいがと、胸をいためていたところなんです」
「なにか変わったところがあるのですか、その遺言状に……?」
「非常に!」
と、古館弁護士は力をこめて、
「いささか非常識ではないかと思われるくらい変わっているんです。これではまるで遺族
のひとびとを互いに憎みあうように仕向けることも同様だと、私も極力老人をいさめたん
ですが、なにしろ佐兵衛というひとががんこなひとで……」
「その遺言状の内容というのを、お漏らし願えませんか」
「いやいや」
と、古館弁護士は手をふって、
「それはいけません。故人の意思によって、佐清君が本邸へかえるまで、絶対に発表でき
ないことになっているのですから……」
「わかりました。それじゃ|強《し》いてお尋ねもいたしませんが、しかし、その遺言状
が読まれた気配があるとすると……どうせ、遺言状の内容に興味を持つのは、犬神家の遺
族のひとに限っていますが、だれかが金庫を……」
「しかし、それは考えられないことです。犬神家の連中であの金庫をあけるチャンスのあ
ったひとがあるとは思えません。そこで私は考えるのですが、若林君がだれかに買収され
たのではないか。……若林君なら、金庫をあけることもできるのです。そこで、犬神家の
だれかに頼まれて遺言状のうつしをとったのではないか。ところが、その結果として犬神
家に変なことが持ち上がった。若林君はそれを恐れたのじゃないかと思うんです」
「犬神家に変なことが起こったというと?」
古館弁護士は探るように、金田一耕助の顔を見ながら、
「そのことについちゃ、あなたにもだいたいお察しのことと思うが、……昨日も湖水で、
変なことがあったそうで……」
耕助ははじかれたようにギクリと体をうしろへ反らした。
「ああ、あのボートの一件……」
「ええ、そう。あなたはあのボートをお調べになったそうだが……」
「そうです、そうです。調べました。ボートの底には、たしかにくり抜いたような|孔《あ
な》があいていて、そこをパテで詰めてあったんですよ。そうすると、あの珠世という女
性が遺言状のなかでなにか……?」
「そうなんです。あのひとこそ、遺言状のなかでの大立て物なんです。犬神家の遺産相続
に関して、あのひとが絶対有利な立場にあるんです。あのひとが死にでもしない限り、犬
神家の相続者は、あのひとの意思ひとつできまることになっているんですよ」
金田一耕助は卒然として、昨日見たあの美しいひとを思い出した。
ああ、あの後光のさすような、神々しいばかりの美しさ、世にもたぐいまれなあの美女
のうえに、犬神佐兵衛翁はいったいどのような運命を用意しておいたのだろうか。
西陽をうけて沈みゆくボート、そのボートの上で狂気のごとく手をふっていた珠世の背
後に、大きくせまる真っ黒な手を、耕助はそのとき、幻のように眼前にえがいたのであっ
た。
佐清帰る
昭和二十×年十一月一日――それは金田一耕助がやってきてから、すでに二週間もたっ
た後のことであるが――信州那須湖畔にある那須市では、朝からなんとなくものものしい
空気をはらんでいた。
それは南方から復員してきて、どういうわけか、そのまましばらく東京に滞在していた、
犬神家の嫡流、犬神佐清が、迎えに行った母の松子とともに、昨夜おそく、とうとう那須
市の本邸へ入ったという知らせが、早くも町じゅうにひろがっていたからである。
那須の繁栄は、すべて犬神家の運命にかかっている。
犬神家繁栄即那須市繁栄であった。寒い山国の、実りもゆたかでないかつての湖畔の一
寒村が、人口十何万という現在の都会に発展したのは、すべてそこに犬神財閥という巨大
な資本の力が種子をおろしたからである。その種子が芽生え、育ち、繁栄していくにした
がって、周辺の土地も栄えていった。そして、そこに現在の、那須市という近代的都市が
構成されたのである。
したがって那須市とその周辺に住むひとびとは、犬神財閥の事業に直接関係していると
否とにかかわらず、大なり小なり、犬神家の恩恵をこうむっていないものはなかった。か
れらはすべて、犬神家の事業のおこぼれをちょうだいして生活しているのであり、犬神家
こそは、したがって、事実上の那須市の主権者も同様だった。
それだけに、那須市民全体の、犬神家に対する関心は大きい。わけても佐兵衛翁亡きの
ちの、犬神家の運命こそは全市民関心の的だったといっても、必ずしも言い過ぎというこ
とはできないであろう。
犬神家のその運命を決定するのが、松子のひとり息子佐清である。かれの復員を待って、
佐兵衛翁の遺言状が公表されるということは、那須市民のすべてが知っていた。したがっ
てかれらは、犬神家のひとびと同様、いや、あるいはそれ以上の熱心さをもって、佐清の
復員を待ちに待っていたのである。
その佐清がいよいよ復員してきた。かれが博多へ上陸したという知らせは、電流が電線
をつたわるように、那須市民のあいだにつたわった。かれらはそのひとが――ひょっとす
ると、自分たちの新しい主人になるかもしれないそのひとが、一刻も早く、那須市へかえ
ってくるのを、一日千秋の思いで待っていたのである。
ところがどうだろう、その佐清は、博多へ出迎えに行った母の松子とともに、東京の別
邸へ入ったきり、なかなか動きそうな様子が見えないのである。一日二日のあいだはまだ
よかった。しかし、松子母子の東京滞在が一週間とのび、十日とたつにしたがって、那須
市民のあいだにはおいおい不安の空気がみなぎりはじめた。
佐清はなぜかえってこないのだ。なぜ、一日も早くかえってきて、祖父の遺言状を披見
しようとしないのだ。迎えに行った母の松子は、だれよりもこのことを知っているはずで
はないか。
それについて、ある人はこんなことをいった。佐清さんは病気ではあるまいか。それで
東京の別邸で、静養しているのではなかろうか。
しかし、それに反対するひとは、こういってまえの言葉を打ち消している。病気静養な
らば、東京よりも那須市のほうが適当のように思われる。博多から東京までかえってこれ
る体力があるならば、ひとあしのばして、信州までかえってくるのは、なんの|造《ぞう》|
作《さ》もないことであろう。汽車がいけなければ、自動車だってなんだって、犬神家の
財力をもってすれば、かなわぬということはない。また、医者にしたところで、これまた、
犬神家の財力をもってすれば、いくらでも東京から名医が呼びよせられるはずではないか。
第一、佐清さんは幼いころから東京の生活をよろこばなかった。あのひとは、自分のうま
れた那須湖畔の風物をこよなく愛し、自分のうまれた湖畔の家に、はげしい執着をもって
いた。長い戦争と、その後の抑留生活につかれた佐清さんが、もし健康を害しているなら
ば、那須湖畔のあの本邸こそ、いちばん適当な療養所ではないか。だから、佐清さん母子
の東京滞在がながびくのは、病気のせいとは思えない……と。