だが、そういうひと自身にも、それではどういう理由がかれら母子を東京に引きとめて
いるのかという点になると、満足な説明はできなかった。いったい、佐清とその母松子は
なんだってこうも犬神家の一族、ならびに那須市民をじりじりさせるのだろう。
実際、那須市民も那須市民だが、犬神家の一族の焦燥はたいへんなものだった。
不思議なことには、単身博多まで息子を迎えに行った松子は、そこから妹の竹子と梅子
の主人にあてて、ひとあしさきに那須市へ行って、自分たちのかえりを待っているように
電報をうっているのである。だから、竹子と梅子の一家はそれぞれ東京と神戸から駆けつ
けてきて、那須湖畔の本邸で松子母子のかえりを、今日か明日かと首をながくして待って
いたのだ。
それにもかかわらず、松子母子はいったん東京の別邸で旅装をとくと、そのまま半月以
上もそこに沈没してしまったのである。そして、こちらから帰省を督促すると、今日かえ
る、明日かえるという電報はやってきたが、その実、いっこう腰をあげる模様はなかった。
しかも、いよいよ不思議なことには、たまりかねた竹子、梅子の姉妹が、ひそかにスパ
?をはなって、東京における松子母子の動静をさぐらせたにもかかわらず、皆目様子がわ
からなかった。松子も佐清も東京の別邸の奥ふかく閉じこもったきり、だれにも絶対に顔
を見せないというのである。
こうして松子母子の東京滞在は、いよいよ疑惑をふかめるばかりか、おりから起こった
若林豊一郎の殺害事件とともに、なんともいえぬ不安な影を、那須市全体に投げかけてい
たものである。
それはさておき、その朝――すなわち十一月一日の朝のことである。
つい朝寝坊をして、十一時すぎになってやっと、朝昼兼帯の食事をすました金田一耕助
が、湖水を見晴らす縁側に椅子を持ち出し、ぼんやりとつまようじをつかっているところ
へ思いがけない客がやってきた。
客というのはほかでもない。犬神家の顧問弁護士、古館恭三氏であった。
「やあ、これは――今日あなたにお眼にかかるとは、ちと意外でしたね」
金田一耕助が、持ちまえの人なつっこい微笑をうかべてあいさつをおくると、古館弁護
士は例によって、ムッツリと|眉《まゆ》をひそめ、
「どうしてですか」
「どうしてって、いよいよ例のが帰ってきたというじゃありませんか。とすればさっそく
遺言状公表という段取りになるのだろうから、今日あたりあなたは犬神家にとっつかまっ
て、てんてこ舞いだろうと思ってたんですよ」
「ああ、そのことですか。それじゃもうあれがお耳に入りましたか」
「入りましたとも。なんしろこんな小さい町ですからな、それに犬神家といえば、このへ
んのひとたちにとっちゃ昔の御領主様みたいなもんだから、そこに起こった出来事といえ
ば、細大もらさず、たちまち町じゅうにひろがってしまいます。今朝も起きぬけに女中の
やつが、御注進というわけで――あっはっは、これは失礼いたしました。まあそこへお掛
けください」
古館弁護士はかるくうなずいたまま、縁側に立って、向こうに見える犬神家の建物を、
湖水越しにながめていたが、やがてゾクリと肩をすくめると、音もなく金田一耕助の向か
いに腰をおろした。
みると今日はモーニングの盛装で、大きな折りカバンを小わきにかかえている。古館弁
護士はその折りカバンを、そっと籐の茶卓の上におくとそれきりしばらく無言である。
金田一耕助はだまってその顔を見つめていたが、やがてニヤニヤ頭をかきながら、
「どうなすったんです。ひどく思案にくれてるって格好じゃありませんか。盛装して、い
ったい、どちらへお出かけです」
「ああ、いや」
古館弁護士は思い出したように、のどの奥で|痰《たん》をきると、
「実はこれから犬神家へ出かけるところですがね、そのまえに、急にあなたにお眼にかか
っておきたくなって……」
「ははあ、なにか御用でも……」
「いや、別に用事ってわけじゃないのですが……」
古館弁護士はちょっと口ごもったが、やがておこったような口ぶりで、
「私がなぜこれから、犬神家へよばれていくか、それはもういうまでもありますまい。い
まあなたもおっしゃったように、佐兵衛翁の遺言状を発表するためです。だから私はまっ
すぐに犬神家へ出向いていって、親戚一同の集まっているまえで、遺言状を読みあげれば、
それで役はすむはずなんです。なにもためらうことはない。……それにもかかわらず、私
はなぜこんなにためらっているのか。なにをこのように思いまどうているのか。そしてま
た、なんのためにあなたのところへやってきて、こんな愚にもつかぬ話をしているの
か。……わからない。私には自分で自分がわからない」
金田一耕助は、あきれたように弁護士の顔を見つめていたが、やがてはーあとため息を
つくと、
「古館さん、あなたは疲れていらっしゃるんですね。過労ですよ、きっと。気をおつけに
ならなければいけませんね。それから……」
と、耕助はそこでいたずらっぽく眼をかがやかせると、
「それから、あなたがなぜここへいらしたか、……それはぼくにもわかってますよ。それ
はね、あなたが意識していられると否とにかかわらず、だんだんぼくを、信用しはじめた
証拠ですよ」
古館弁護士は眉をあげると、ギロリと耕助の顔をにらんだが、やがて渋い微笑をうかべ
ると、
「いやあ、あるいはそうかもしれません。実はね、金田一さん、わたしゃあなたにあやま
らねばならんことがある」
「はてな。ぼくにあやまらねばならんことというのは……?」
「ほかでもありませんがね。わたしは実は、東京の同業者にたのんで、あなた、すなわち、
金田一耕助なる人物の身元調査をしてもらったんですよ」
これにはさすがの耕助も、びっくりしたように眼玉をひんむいた。しばらくあっけらか
んとして、古館弁護士の顔を見つめていたが、やがて爆発するような高笑いをゆすりあげ
た。
「こ、こ、これあどうも、……いやはや、ど、ど、どうもどうも、……名探偵、逆に探偵
されるというわけですな。しかし……いやいや、別にあやまらなくてもいいですよ。いや、
ぼくにとっちゃ実にいい教訓になりましたよ。実はね、これで相当うぬぼれがあって、金
田一耕助といやあ、名声天下にかくれなし……てえくらいの自信は持っていたんですから
ね。あっはっは、いやいや、冗談はさておいて、調査の結果はどう出ました」