あの奇妙な、無気味な、そしてまた、なんともいえぬ妖気をさそう仮面をかぶった佐清
は、その仮面ゆえに、顔の表情はわからなかったが、はげしいショックを感じていること
は、小刻みに、ワナワナと震える肩でも指摘できるであろう。袴の膝へおいた両手がブル
ブルとおこりのように震え、やがて仮面の下から、滝のような汗が、あごからのどへと流
れつたわっていく。
あの衝立のような|恰《かっ》|幅《ぷく》をした佐武は、|茫《ぼう》|然《ぜん》
と眼を見はって、眼のまえの畳のある一点を凝視している。さすが|傲《ごう》|岸《が
ん》|不《ふ》|遜《そん》の佐武も、祖父のこの奇妙な遺言状の一撃には、うちのめさ
れてしまったらしい。かれの額にも、汗がビッショリうかんでいる。
あの軽薄才子の佐智は、いっときもじっとしていなかった。せわしなく、それこそ見て
いるものの気が変になるほど、せわしなく、貧乏ゆすりをやりながら、稲妻のようにすば
しっこい視線で、一座のひとびとの顔をぬすみ見る。そして、ともすれば、その視線は、
珠世のほうにすいよせられ、すると、一種の希望と懸念のまざった薄ら笑いが、うすいく
ちびるのはしに動くのである。
佐智のこういう動きから、かたときも眼をはなさないのが、佐武の妹の小夜子だった。
彼女は手に汗握り、全身を石のように硬直させながら、いとこのこういう軽薄なそぶりを
見守っている。彼女の全身からは、声のない祈りと訴えが佐智にむかって、電波のように
送られる。そして、それらの祈りも訴えも、なんの効果もないことを知り、かつまた、あ
のいやしい秋波が、珠世におくられるのを見るごとに、小夜子はきっとくちびるをかみ、
悲しげに顔を伏せるのだった。
松子と竹子と梅子の三人は、三人ながら怒りの化身のようであった。ドス黒い憎しみ――
それはおそらく亡くなった佐兵衛翁に対する憎しみであったろう――のために、松子も竹
子も梅子も、全身がいまにもハチ切れそうであった。そして、憎しみの対象が、すでに故
人になっていることに気づくと、彼女たちの憎悪は、あらためて珠世の上にそそがれるの
である。ああ、三人の女の、あの毒々しいまなざしはどうだろう。
竹子の夫の寅之助は、表面、冷然とかまえている。しかし、かれもまた、内心いかに怒
りにもえているかということは、あのあから顔がいよいよあかく、いまにも脳出血でも起
こすのではないかと思われるほど、ギダギタと脂ぎって、充血しているのでもわかるので
ある、あのギロリとした眼はさながら毒針でも含んでいるようだ。そして、その毒針は、
自分の妻子以外の、すべての人間にむかって吹っかけられているのである。
梅子の夫の幸吉の眼つきは、さんざんひとにぶたれ、いじめぬかれた野良犬の眼つきに
似ていた。おびえたようにおどおどと、一座のひとびとの顔色をうかがい、すっかりしょ
げきった様子ながら、しかし、一皮むけばそこに油断のならぬ陰険さをいだいている。こ
れもまた、自分の息子の佐智以外の、すべての人物に対してドスぐろい毒気をふきかけて
いる。現在の妻、梅子に対してすら、かれの眼つきはおだやかではなかったのだ。
さて、最後に珠世だが、遺言状がすっかりおしまいまで読みあげられたときの、彼女の
態度こそ見ものであった。
古館弁護士が、遺言状の一項一項を、読みすすんでいくにしたがって、彼女はしだいに
落ち着きをとりもどしてきたらしい。そして古館弁護士が最後まで読んでしまったときに
は、顔色こそ青ざめていたが、けっして彼女は鼻白んだり、動揺したりしてはいなかった。
珠世は端然と座っている。美しい塑像のように、静かに――それこそひっそりと座って
いる。犬神家の一族の憎しみにみちた眼が、炎々と、|火《ひ》|箭《や》のように自分
にそそがれているのを彼女は気がつかないのであろうか。彼女はただ端然と、静かに座っ
ている。ただ、その|瞳《ひとみ》には、一種異様なかがやきがあった。それはまるで夢
を追うような、まぼろしを慕うような、一種|恍《こう》|惚《こつ》たるかがやきであ
った。
突然、だれかが叫んだ。
「うそです! うそです! その遺言状はにせものです」
金田一耕助はハッとしてそのほうを見る。それは佐兵衛の長女松子であった。
「うそです! うそです! それは、亡父のほんとうの遺言状ではありません。だれかが……
だれかが……」
松子はそこで大きく肩で息をすると、
「犬神家の財産を、横領するために書いたお芝居の筋書きです。それはまっかなにせもの
です!」
松子の金切り声は火を吐いた。
古館弁護士はビクリと眉を動かして、なにかせきこんだ口調でいおうとしたが、すぐ気
がついたようにハンケチを出して口のまわりをぬぐうと、つとめて、おだやかな声が、さ
とすようにこういった。
「松子奥さま、わたしもこの遺言状が、にせものであってくれたらどんなによいかと思わ
ずにはいられません。また、この遺言状がたとえ佐兵衛翁のほんとうの意志であったとし
ても、遺言状としての形式に、どこかに欠陥があって、法的に無効であったならばどんな
によいかとも思っているのです。しかし、松子奥さま、いや、松子奥さまのみならず、皆
さまにもよく申し上げておきますが、この遺言状は、けっしてにせものでもなければ、ま
た、法的にもすべての条件を具備しているのです。もし、あなたがたが、この遺言状に異
議があって、法廷で争おうとなさるならば、それも御勝手ですが、それはおそらくあなた
がたの敗訴となっておわるでしょう。この遺言状は生きています。あなたがたが、なんと
おっしゃろうとも、この遺言状の精神は、一字一句のまちがいもなく、守られなければな
らないし、また逐一、実行されなければならないのです」
古館弁護士はかんでふくめるようにそういうと、仮面の佐清からはじめて、犬神家の一
族のひとびとを順次見まわしていったが、最後にその視線が金田一耕助の番にくると、そ
こでピタリと動かなくなった。その瞳のなかには、不安と懸念と恐怖とそしてある訴えが、
洪水のようにあふれているのである。
金田一耕助はかすかにうなずいた。そして、その眼を、弁護士の握っている、遺言状に
うつしたとき、まるでそこから血が吹き出してでもいるような、一種のすさまじさを感じ
ずにはいられなかったのである。
犬神系図
「で……?」
と、金田一耕助がポトリといった。まるで軒をつたって落ちる雨垂れのように陰気な|
声《こわ》|音《ね》であった。
「で……?」
と、しばらく間をおいてから、古館弁護士が、おうむ返しにこたえた。耕助に負けず、
劣らず、救いがたい陰気さにかげらう声であった。