それきり、ふたりとも無言で、湖水ごしに犬神家の|宏《こう》|壮《そう》な建物に
眼をやっている。秋の山国の暮れるに早く、犬神家はいま|蒼《そう》|茫《ぼう》と、
雀色にたそがれていく。古館弁護士の眼には、あたかもそれが、まがまがしい黒衣につつ
まれていくようにでも見えたのか、チリチリと細かい戦慄が膝から|這《は》いあがって
いくのを金田一耕助は見のがさなかった。
風が出たのか、湖水の表面には、ちりめんじわが吹いては流れる。
古館弁護士は、大事をおわったあとのだれでもがそうであるように、いまにも放心しそ
うな、ものうい|倦《けん》|怠《たい》に身をまかせながら、もう一度、
「で……?」
と、陰気な、機械的な声でたずねた。
遺言状の発表をおわったのち、犬神家を辞したふたりだった。
遺言状のかもし出した、あの救いがたい、あさましい|葛《かっ》|藤《とう》に、や
りきれない重っくるしさを胸にいだいたふたりは、それからのち、ほとんどひとくちも口
をきかず、どちらからともなく、那須ホテルへ足をむけた。そしてふたりそろって耕助の
座敷へかえってくると、縁側の|籐《とう》|椅《い》|子《す》に腰をおろしたまま、
ずいぶん長いあいだ、黙りこくっていたのである。
耕助はすうでもなく、すわぬでもなく、口にくわえたまま立ち消えになっていたたばこ
を、勢いよく灰皿のなかに投げ出すと、籐椅子をギ?ときしらせて、急にからだを乗り出
した。
「さあ、古館さん、話してください。ああして遺言状が発表されてしまえば、あなたの任
務も一応はおわったわけでしょう。もう秘密も秘密でなくなった。その遺言状について、
あなたの胸に抱いていることを、残らずここで吐き出してください」
古館弁護士は、おびえたように暗い顔をして、金田一耕助の顔を見守っていたが、やが
て力のない声で、
「金田一さん、あんたのおっしゃるとおりです。もう秘密も秘密ではなくなった。しかし、
なにから話してよいか……」
「古館さん」
耕助はひくいながらも力のこもった声で、
「さっきの話のつづきをしましょう。ほら、さっきあなたが、犬神家へ行かれるまで、こ
の座敷で話していた話のつづきを。……古館さん、あなたは若林君を買収して、ひそかに
遺言状を読んだ人物を、珠世さんだと疑っているのではないのですか」
古館弁護士はそれをきくと、痛いところを逆なでにされたように、ギクリと体をふるわ
せたが、やがて息をはずませながら、
「ど、どうしてあなたはそんなことをおっしゃるのです。いいえ、だれが若林君を買収し
たのか、だれが遺言状を読んだのか、わたしには見当もつきませんよ。いやいや、それよ
り遺言状が読まれたかどうか、それさえ、わたしにはハッキリわからないのですよ」
「は、は、は、古館さん、いまさら、そんなことをおっしゃってもダメですよ。珠世さん
のたびたびの災難が偶然だとしたら、あまり話がうまくいきすぎてるとは思いませんか。
あなただってまさか……」
「そうそう、それそれ」
古館弁護士もいくらか生気をとりもどした格好で、
「それがあるじゃありませんか。それがあるからこそ、珠世さんが、若林君を買収した当
人じゃないことがわかるじゃありませんか。もしかりに、だれか若林君を買収して、ほん
とに遺言状を読んだものがあるとしても……」
金田一耕助は、意味深長な微笑をうかべて、
「しかし、それじゃ、珠世さんは、どうしてああもたびたび危ない目に遇っているのです。
まかりまちがえば、命にかかわりそうな災難に……」
「だから、それは、遺言状を読んだやつが、珠世さんを殺そうとしたのじゃ……なんとい
っても、犬神家の一族にとっちゃ、珠世さんこそ、眼のうえのこぶですものね。あのひと
が生きている限り、犬神家の相続者は、あのひとの意志ひとつできまることになっている
のだから……」
「しかし、それじゃそいつは、なぜ、失敗ばかりしているのです。寝室の|蝮《まむし》
に自動車の事故、三度目はこのあいだのボートの事件、……いつも失敗ばかりやっている。
どうして、もっとうまくやれないのでしょう」
古館弁護士は恐ろしい眼をして、耕助の顔を見守っている。小鼻がふくらみ、額からは
じりじりと汗がにじみ出る。やがて古館弁護士は、のどをふさがれたような声でささやい
た。
「金田一さん、あなたのいうことはよくわからない。あなたはいったい、なにを考えて……」
耕助はゆっくり首を左右にふると、
「いいや、知っているのだ。あなたは知っていながら、わざとそれを打ち消していらっし
ゃるのだ。あなたはこうお考えになったにちがいない。寝室に蝮を放りこんだのも、自動
車のブレーキにいたずらしたのも、ボートの底をくりぬいてパテを埋めておいたのも、み
んなみんな、余人ではなく、珠世さん自身ではなかったかと……」
「なんのために! なんのために、珠世さんがそんなことをするんです」
「来るべき事件の準備行動として……」
「来るべき事件とは?」
「佐清、佐武、佐智の三重殺人事件……」
古館弁護士の額の汗は、いよいよひどくなってくる。滝のような汗が、額から|頬《ほ
お》へと、幾筋にもながれおちる。古館弁護士はそれをぬぐおうともせずに、籐椅子の|
両肘《りょうひじ》を、しっかりつかんで、いまにも跳躍しそうな勢いを示した。
「佐清、佐武、佐智の三重殺人事件ですって? だ、だれがあの三人を殺すというのです。
そして、そのことと珠世さんの一件と、どんな関係があるというんです」
「まあ、お聞きなさい、古館さん。珠世さんは莫大な財産を譲られた。すばらしい権力の
相続者に擬せられている。しかし、それには、ひょっとすると、彼女にとって、致命的か
もしれない条件がついているんですよ。すなわち、彼女は佐清、佐武、佐智の三人のうち
のだれかと結婚しなければならない。もし、かれらが三人とも死んでしまうか、それとも
三人が三人とも、珠世さんとの結婚を拒否しないかぎり。……ところであとのほうの条件
は、絶対にありえないことでしょうからね。珠世さんはあんなに美しいのだし、しかも彼
女と結婚することによって、犬神家の莫大な財力と権力を握ることができるのですから、
よほどのバカでもないかぎり、この結婚を拒むものはありますまいからね。現にぼくは今
日あの席で、早くも佐智君が、珠世さんにモーションをかけはじめたのを、ハッキリこの
眼で見ましたよ。ところで……」